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2020年01月21日17:17

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母のこと

父や母は自分のことを語ることはあったがポツンぽつんと何かのタイミングの際に語る感じだったから時系列などはわからなくなってしまってた。海軍のことなどもっと聞いておきたかったがこちらは質問するだけの知識がなかったから父はその辺をきちんと語ることはなく死んだ。その父の謎歴史に1年未満ほどの結婚期間というのがある、母と結婚する前のことらしいが、父がこれを語ることはなかったし親戚なども話すことはなかったからもう全くわからない。

母は今日会った際にかなり自分歴史を話してくれた。生きてる間に聞かせたいという気持ちもあるのだろう。
記録として書いておこう。母は学校の先生になりたかったが家は貧しく女学校に行かせるお金がなかった。ちょうど戦争が始まって少しであり、父が医者先生に何かの折相談したところ、日赤が看護婦を募集するというのを知った。日赤看護婦はそれまでやはり女学校出ではないと受け入れなかったが、従軍看護婦の不足で一般応募をしはじめたのだ。これを乙種という。それで母は勉強し合格した。そのとき同じ地区から数人応募したらしいが合格したのjは母だけだった。で、日赤乙種もとめて母の出身校の後輩もその後数人応募したが合格者は出なかったという。
日赤で、母は首席で卒業、卒業行進の時一番で歩き旗を持ったという。成績の上から外地に飛ばされるので、母は南京へいった。日赤看護婦というと乙種をしらないから皆エリートだと思っていたから、そうとうプレッシャーを感じてた。
陸軍病院で(前線に行かされれた人はやはり戦死したとか)でまだ若いころだから恋もあった。
何とか上等兵いう若い兵隊さんのラッパがうまくその人の消灯ラッパの時は皆が聞きたがっていたという。
乙種は戦況も悪くなってきたので母の後からはみな内地勤務になり外地に行くこともなく、終戦になるので乙種は5年で終わるから母の経験は貴重なものだ。南京でシラミやらノミやらと戦い虐殺などもなく無事戻ってくる。

熊本に帰って、らい病棟へ志願していった。まだ若く看護婦の奉仕精神というような夢のようなものがあったのだろう。
でもさすがにライはつらかったという。感染ないのはわかっていても正視するのがきつかったとか。「手なんか生姜のようになってな・・でもみな俳句とか唄とかして暮らしとった・・」いまでこそ断種の批判をしているが当時はそれが正しい方法というのが医学的に正道だったという。そこで外科の看護を任されたらしい。外科といっても大きな手術ではない。母は外科は初めてだったらしいく不安だったがそこの婦長がとてもよく教えてくれたとのこと、言わなかったけどおそらく断種手術をしたのだろうと思う

それからしばらくしてまたどうするか考えた、当時は乳児の死亡率は1/5ほどもあったので保健婦を志した。たまたま村の役所にいたら保健婦学校の募集があったらしく、父に相談すると日赤時代に送ってきた給料が2000円ほどありそれを学費に当てたらしい。さて保健婦産婆さんとなったがまだ若く子供も産んでないのに子を産む親にアドバイスするというのはなんともしづらいとか、いろいろあったので人を頼って看護婦にもどり延岡の旭化成にいった。ここでの積み立て年金が後ほど役立ったという。さて、旭化成の院長は軍医上がりで日赤というと喜んで歓迎してくれた。。特にこの院長は面白い人で、花瓶にさしてある花を見て「あの花は何か?」と聞き、答えられなかったらその場で「百科事典で調べてこい」というひとだったという。
また山が好きでしょっちゅう山へ連れて行ってくれたと。この院長が母の趣味を教えてくれた恩人らしい。短歌とかね。最後は九大の教授になっていったとか。
母が父と出会ったのは山がきっかけだ。
祖母山にいったとき父のパーティと出会い挨拶をかわし、小倉に行ったら連絡してください、くらいの会話をしたのだろう。平尾台に行くとき連絡したら案内をしてくれた。
それからしばらくして父から電話があり、「父が倒れたので数日父の看護を見てくれないか」とのことで「まあ、数日なら」と引き受けたところ数日で死んでしまった、これがきっかけで母と結婚ということになる。で私が生まれたわけだ。


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