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2020年02月18日09:16

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初公開!ライター講座テキスト

中上健次をどう扱うのか、テキストを
見たいというメールをたくさん
もらったので、少し長いけど、
公開します。
こうして毎回オリジナルのテキストを
作って受講生にお渡ししてます。
興味のある方はどうぞご覧ください。

    ライター講座 テキスト 中上健次

 今回は中上健次の「岬」を取り上げます。この作品は日本初、戦後生まれが芥川賞を受賞したということで話題になったもので、中上が30歳の時に書いたものです。以降彼は、戦後を担う純文学の大作家として名を馳せていきます。
 なぜ中上が文学の世界において特別なひとりになっていったのか、
それは彼の出自にあります。
 中山は和歌山県新宮の被差別部落の地で生まれました(彼はその地を路地と呼んでいます)。濃密な人間関係とすさまじい人生が交差する場所で育った彼は、自分の出自を物語にし、魂を抉り出すような文体と文章力で読者に強烈に迫っていきます。
 なぜ彼の小説がこれほどまでに引き付けるのか、その秘密を探ってみましょう。

 まずは彼のプロフィールを。
 1946年8月2日 - 1992年8月12日)は、和歌山県新宮市生まれの小説家。和歌山県立新宮高等学校卒業。妻は作家の紀和鏡、長女は作家の中上紀、次女は陶芸家で作家の中上菜穂。
被差別部落の出身であり、部落のことを「路地」と表現する。羽田空港などで肉体労働に従事したのち、執筆に専念する。初期は大江健三郎や石原慎太郎といった当時の新進作家から文体的な影響を受けた。後に知り合った年長の友人である柄谷行人から薦められたウィリアム・フォークナーの影響で先鋭的かつ土俗的な方法論を確立、紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、ひとつの血族と「路地」のなかの共同体を中心にした「紀州サーガ」とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。1976年(昭和51年)、『岬』で第74回芥川賞を受賞、戦後生まれで初の芥川賞作家となった。1992年、腎臓癌の悪化により46歳の若さで死去した。

 次に小説「岬」のあらすじを
 舞台は和歌山県親宮の路地(被差別部落)。主人公の秋幸は母親の2番目の旦那との間にできた子供。上の姉達は母と最初の旦那(故人)との子供で、種違いの姉弟である。
父親は秋幸が生まれた頃は刑務所にいた。その実父は母を含む3人の女を孕ませていた。この父親との血の繋がりが彼を苦しめる。自分にも、父親のような犯罪者で、淫乱で、醜い獣の血が流れている、顔もだんだんと父親に似てきている。
実父が孕ませた3人の女が生んだうちの一人の娘、未だ見ぬ腹違いの妹は新地で売春婦になっていると聞く。
ある日仕事仲間の安雄が義理の叔父である古市を殺す。次姉の美恵の精神が異常をきたす。幼児返りする美恵。「お母さんよぉ、お母さんと一緒に居りたいよぉ」それを叱責する長姉・芳子「何がお母さんよ、あんなんがうちらに何してくれた!」(母は3番目の旦那と結婚する際、長男の郁夫と姉たちを捨てている。長男は自殺。)
心身状態が悪化した美恵を慰めるため、芳子と秋幸は美恵を連れて、岬へピクニックにいく。自殺した兄を涙ぐみながら思い出す美恵。帰ってきた後も美恵は踏み切りに飛び込もうとするなど、気がふれたまま。古市を殺した安雄の妻の光子はもう新しい男を作っている。
不愉快な関係性の連鎖に秋幸は内心叫ぶ「俺はどろどろのお前たちとは違うんだ」
終盤、秋幸は売春宿に行き、初めて女を買う。その女は腹違いの妹である。女は客であるその男が兄とは知らぬまま応じる。彼は妹との間に肉体関係を持つ。秋幸は自分の中と妹の中に溢れる獣の血を全身に感じる。

 とこんな風にあらすじを読んだだけで、いかにこの小説が濃密か、
生々しいかよくわかると思います。でも本来、生きるということはすさまじく、生々しいもの。だとすれば中上の小説は人が生きるというはどういうことかを真正面から見つめた物語なのかもしれません。続いて文章をピックアップ。
 秋幸が好きな仕事、土方について書いた文章です。

 土方は、彼の性に合っている。一日、土をほじくり、すくいあげる。ミキサーを使って、砂とバラスとセメントと水を入れ、コンクリをこねる時もある。ミキサーを運べない現場では、鉄板に、それらをのせ、スコップでこねる。でこぼこ道のならしをする時もある。体を一日動かしている。地面に坐り込み、煙草を吸う。飯を食う。日が、熱い。風が、汗にまみれた体に心地よい。何も考えない。木の梢が、ゆれている。彼は、また働く。土がめくれる。それは、つるはしを打ちつけて引いた力の分だけめくれあがるのだった。スコップですくう。それはスコップですくいあげる時の、腰の入れ方できまり、腕の力を入れた分だけ、スコップは土をすくいあげる。なにもかも正直だった。土には、人間の心のように綾というものがない。彼は土方が好きだった。

Q この文章を読んでどう思ったか?
 このような「労働の賛美」が字義通りの意味ではないことは明白です。彼が求めているのは「労働の喜び」というよりも、いわば「人間」という存在を無化し、解体してしまうような「自然の冷淡さ」に対する麻薬的な憧れなのです。それは「絡み合った血縁」によって四方八方へ小突き回されずにはいられない自分の「呪わしい境遇」に対する嫌悪と表裏を成しています。彼は何も考えたくないし、何にも煩わされたくないという切実な感情を生きています。その背景には、今は共に暮らしていない、悪評に塗れた「実父」の存在が深く関与しています。

 次の文章は、好き勝手に子どもをあちこちに作っていく父への憎悪を描いたものです。
 もろい、どちらか一人が踏みはずせば、壊れてしまう家だった。敵には強かった。しかし、そんなものは嘘だ。嘘の家など必要ではない。いや、もともと家など要らない。彼は思った。離れの彼の部屋にはいった。おれは、母だけの子だった。父などなかった。いま母にむかって、彼は、おれの兄と姉を元に戻せと言いたかった。兄も姉たちも、母の子であることに変りない。あの男の顔を思い出した。あの男の声を思い出した。あの男が、自分の何ものかであることは確かだった。だが、父とは呼びたくない。一体、おまえたちはなにをやったのか? 勝手に、気ままにやって、子供にすべてツケをまわす。おまえらを同じ人間だとは思わない。おまえら、犬以下だ。もし、ここにあの男がいるものなら、唾をその顔に吐きかけてやりたかった。あの男は、絶えずおれを視ている。子供の頃から、その視線を感じた。その眼を、視線を、焼き尽したい。彼は部屋の中を歩きまわった。壁を蹴った。この手にも、この足にも、あの男が入り込んでいる。

Q この文章について、どう思ったか?
 この凄まじく強烈な「憎悪」が、手前勝手に交わって次々と子種を宿し続ける「親」に向けられているものであることは言うまでもありません。もっと言えば、ここには「生殖の原理」に対する拭い難い「憎悪」が噴き上がっているのです。そして、どう足掻いても、そのような「血の因縁」からは逃れられないことに、彼は堪え難い苛立ちを覚えています。次から次へと引き摺られるように、彼は厄介な事件に巻き込まれ、身内の諍いや問題に振り回され、少しずつ消耗しながら同時に「膨張」していきます。その「膨張」とは要するに「暴発の予兆」です。

 主人公は父への憎悪から次第に土地そのものへの怒り、自分の存在価値についても苛立ち、問題を起こしていきます。次の文章はその怒りの予兆を描いたシーン。
 さっきまで、町を歩きまわっていた。明日から仕事に出る、そのために新しい地下足袋を買う必要がある、と母に言い、外に出たのだった。彼は一人になりたかった。息がつまる、と思った。母からも、姉からも、遠いところへ行きたいと思った。あの朝、首をつって死んでいた兄からも自由でありたかった。すぐ踏み切りに出た。一本立っているひょろ高い木の梢が、揺れている。自分は、一体なんだろうと思った。母の子であり、姉の、弟であることは確かだった。だが、それがいやだった。不快だった。姉たちとは、片方の血でしかつながっていないのも確かだった。姉たちの父親は、彼には、父親ではない。弦叔父は彼の、叔父ではない。かくしても、とりつくろっても、それは本当のこととしてある。彼は歩いた。その男と出会う事を、願った。姉に、死んだ父さんがあるように、彼にもある、人間だから、動物だから、雄と雌がある。雄の方の親がある。その雄と決着をつけてやる。いま、自分の皮膚を針ででも突つくと、そこから破け、自分がすっかり空になりそうだ。切って、傷口をつくって、すべて吐き出してしまいたかった

Q 文章を読んで思ったことは?
 ここには「家族」という擬制への尽きせぬ憎悪があり、「血縁」に縛られることへの凝縮された反発が滾っています。彼は「血」によって訳の分からぬ因縁や宿業へ引き摺り込まれることにも、そうした「血の因縁」そのものが原因となって発生する諸々の不幸な悲劇にもすっかり倦み果てているのです。生殖の原理によって強制的に結びつけられた人間同士の関係性が常に幸福なものであるとは限らないのは自明ですが、にもかかわらず、そこから逃れるという選択肢が存在しないことに、彼は「息がつまる」ような思いを抱え込んでいます。そして彼が終盤に犯す「近親相姦」という罪は言うまでもなく、世界中の血縁的共同体において禁忌として定められている「重大な罪悪」であり、とんでもなく「酷いこと」です。彼は自覚的にその「罪悪」を演じることで、不朽の秩序として信奉され続け、永久的に堅持されようとしている「血縁」のシステムを破壊しようと試みるのです。
 主人公秋幸は、自分の出自を血のつながりへの怒りを、近親相姦というカタチで破壊しようとします。売春をしている腹違いの妹と
(相手は知らない)寝るラストシーンの文章。

 この女は妹だ、確かにそうだと思った。女と彼の心臓が、どきどき鳴っているのがわかった。愛しい、愛しい、と言っていた。獣のように尻をふりたて、なおかつ愛しいと思う自分を、どうすればよいのか、自分のどきどき鳴る心臓を手にとりだして、女の心臓の中にのめり込ませたい、くっつけ、こすりあわせたいと思った。女は声をあげた。汗が吹き出ていた。おまえの兄だ、あの男、いまはじめて言うあの父親の、おれたちはまぎれもない子供だ。性器が心臓ならば一番よかった、いや、彼は、胸をかき裂き、五体をかけめぐるあの男の血を、眼を閉じ、身をゆすり声をあげる妹に、みせてやりたいと思った。今日から、おれの体は獣のにおいがする。安雄のように、わきがのにおいがする。酔漢なのだろうか、誰かが遠くで、どなり叫んでいるのが彼にきこえた。苦しくてたまらないように、眼を閉じたまま、女は、声をあげた。女のまぶたに、涙のように、汗の玉がくっついていた。いま、あの男の血があふれる、と彼は思った。

Q この文章を読んだ感想は?
 この衝撃的な絶唱のような文章は、彼が復讐のために「血族」というシステムを破壊する「罪人」に転身したことを明確に告げています。「獣のにおい」という言葉に象徴されるように、彼はインセスト・タブーを犯すことによって「家族」の瓦解を惹起しようとし、それによって「人間の条件」からの逸脱を図りつつあります。それは労働を通じた「自然との交歓」によって目指された「空っぽ」の状態への憧れと同期しており、かつて坂口安吾が「風と光と二十の私と」の中で追究したように、そのような「自然との交歓」は「人間的なもの」の否定と一体的に存在し、機能します。人間であることは「苦しむこと」だと、坂口安吾は高らかに宣言しました。その説教を踏まえるなら、秋幸は「血族」というシステムの崩壊に手を貸すことを通じて、いわば「人間的なもの」からの遁走を企てているのです。

 最後に中上と売れない頃に切磋琢磨していた、作家北方謙三氏の
中上への思いを語った対談を紹介します。

 俺は最初、純文学というジャンルをやってたんです。その時の10年は、それこそ毎日毎日、精魂込めて、命を削って書いていた。ところがノートに荒っぽく、わーっと書いてる中上健次のほうが遥かに何かがあるんです。中上と立松と俺はよくゴールデン街で団子になって殴り合いしてたんだけど(笑)、中上健次という作家は本当に乱暴な小説の書き方をした。しかも書いているのは人間の汚濁です。人間の醜さ、どろどろの汚濁。だけど、そこからなぜかひと粒だけ、この上なく美しい真珠をつまみ出す。それが“文学”なんです。だから中上健次というのは文学をやるために生まれてきた人間なんですね。中世から連綿と続く血、人間と社会が持ってしまった醜さや差別……、そんなマイナスを全部背負って生まれてきたんだけど、ある時、それがでっかいプラスに変わる。そういう天才が、芸能の世界にも文学の世界にもいて、中上もそのひとりなんです。
 だから、芸術や文学と狂気は紙一重のところがあって、やっぱり中上もボロボロになって死んだでしょう? 最後の作品なんかは見るも無残ですよ。中上には、『岬』『枯木灘』という作品系列があって、「その先にもう一作書けば徳田秋声みたいに文豪として名前が残る、もう一作書きたいんだ」と言ってたけど、結局、46歳で「癪だよなぁ」と言って死んでった……。で、話が戻ると、そんな中上と比べたら、俺には書くべき文学が全然ないということに痛いほど打ちのめされた。そして、のたうちまわって苦しんで、初めて物語というのが見えた。俺には文学はない、だが、物語=小説はあるとね。
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