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2019年08月25日16:23

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『秘密ひき出す大臣のお酌 田中角栄の「気配り」に学ぶ』。

今日見つけた、興味深いネットニュースをアップ。
(以下はニッケイネットからの無断転載です。ニッケイネットさん。すみません。素敵な記事だったので転載させて頂きました。)

第1次石油危機時、米国務長官のキッシンジャーを相手に渡り合い中東からの原油調達に成功した田中角栄。ソ連の共産党書記長ブレジネフとの会談では北方領土の問題が存在することを強引に認めさせた。「剛腕」のイメージがつきまとうが、通商産業相(現経済産業相)、首相の秘書官として角栄を支え続けた最側近、小長啓一は「とても繊細なリーダーだった」と振り返る。『田中角栄のふろしき』(日本経済新聞出版社)に収められた証言に「リーダーの条件」を学ぶ最終回は「優しさ」について。 =敬称略

(1)初対面なのに名前を… 田中角栄の1対1で向き合う力 >>

新潟県柏崎市西山町の角栄の生家は今もそのまま残る。かつては観光バスが連なりたくさんの人が詰めかけたというが、今はすっかり訪れる人も減った。ちょうど真向かいにある諏訪神社だけが、昔と変わらず角栄の生家を見つめている。
その生家から歩いて10分。小高い山を登り切ったところに田中角栄記念会館が建っている。「見る価値なし」「行くだけ無駄」。インターネット上の評判は散々だが、実際に足を運んでみると、必ずしもそうではない。

角栄という人間をじっくり考えるなら、どうしても見ておかなければならない品々がたくさんあった。その一つが角栄の書だ。
館内は写真撮影が禁止になっているため、ここで紹介できないのが残念だが、極めて達筆である。しかも、意外なことに実に流麗で美しい。

■つつましやかで温和

角栄というだけで、反射的に荒々しく、男らしい書を想像してしまいがちだが、おしなべて優しい。

館内に掲げられた加藤僖一新潟大学名誉教授の書評にはこうある。
「氏の書を見ると、コンピューターつきブルドーザーといわれたエネルギッシュでタフな性格とは、これまたかなり異なった印象をうける。つつましやかで、温和で、女性の書のようなやさしさがある。結体(けったい=文字の形)には少しの癖もなく、お手本的でさえあり、線は素直でのびのびとしている」
実際、角栄が通商産業相(現経済産業相)、首相だった際に秘書官を務めた小長によると「田中さんは繊細で気配りのすごい人だった」という。

角栄は通産省や大蔵省(現財務省)の官僚から人気があったが、結局はそれも気配り、優しさからだった。役人たちの家族構成や家族の年齢を記憶し、廊下ですれ違ったりすると、「君の奥さんの風邪はもう治ったのか」「下の坊ちゃん、今年受験だったよな」……。それは単なる儀礼ではなかった。
こんな話もある。

通産相時代の夜の宴席だ。それはかなり独特だった。角栄が主賓の宴席では、いつも主賓席に主(あるじ)の姿がなかったのだ。角栄自身が宴席で酒を飲むことはほとんどない。代わりに相手につぐ。徳利(とっくり)を持ち、一人ひとり客についで回るのだ。だから、主賓席はいつも空だった。

■宴席は真剣勝負、情報収集の場

ただ、小長に言わせれば「宴席というのは田中さんにとって真剣勝負の情報収集の場」だった。まさに耳学問だ。大臣自らが酌をするために、自分の席にまでやってきたとなれば、いかに百戦錬磨の経済人といえども恐縮する。ウソだってなかなかつけない。ついついしゃべりすぎてしまう。

経済人と角栄のやりとりは末席に座る小長にもよく聞こえた。
話題は差し障りのないものも多かったが、なかには小長が初めて耳にする話題も少なくなかった。「えっ、そんな話があったのか」と驚くような水面下の合併話や買収案件なども何となく聞こえてきた。

通産省の幹部である小長が知らないということは役所が知らないということだ。そんなときは漏れ聞こえた内容を記憶しておき、宴席が終わるとすぐさま通産省に電話を入れた。
「田中さんと業界の幹部が、宴席でこんな話をしていたけれど、知っていますか」と担当の部局の幹部に話すと「そうなのか。それは知らなかった。明日にでも確認してみよう。助かった」とありがたがられることもしばしばだった。

もちろん角栄は小長の動きを百も承知だった。知っていて、わざと聞かせてくれているのだった。角栄流の優しさ、気配りだった。

■やると決めたら徹底的にやる

また、こんな話もある。ゴルフだ。角栄は「ストレス解消にはゴルフが一番」「まず動くこと。これが大事」と疲れているときほどコースに出た。

若いころからゴルフ好きだったわけではなく、政治家になってもしばらくは「あんな貴族がするようなものは俺の性に合わない」と取りあわなかった。しかしあるとき、「やる」と決めた。自民党の幹事長のころだ。そして秘書にこう指示した。
「ありったけのゴルフの本を買ってこい」
決めたら徹底的にやるのが角栄だ。秘書が買ってきた両手いっぱいの本を片っ端から隅々まで読んだ。この読書に半年をかけた。

次にようやく実践。レッスンプロにつき手ほどきを受ける。熱心に通い詰めこれにも半年をかけた。読書半年、レッスンプロに半年。合わせて1年の準備期間を経てついにコースに出たときには初めからスコア100を切った。角栄ならではの「集中力のなせる技」だった。

小長が通産相の秘書官として角栄についたころには、すでに相当の腕前になっていた。小長もゴルフは「やるにはやっていた」が、それほどの腕前でもなく最初、角栄から誘われたときも断った。「私はご一緒できるほどではございません」
すると角栄はこう言った。「いやいや、君は『秘書官ゴルフ』でいいんだよ」

■大臣の気配り、「秘書官ゴルフ」

角栄がいう「秘書官ゴルフ」とはこうだ。
まず、先に角栄が打つ。ボールはフェアウエー真ん中で先まで飛ぶ。次に小長が打つ。角栄ほどは飛ばない。少しそれて角栄のボールの手前にポトリと落ちる。普通のルールなら次はピンよりも遠い小長がボールを打ち、角栄に追いつく。

ところが角栄は小長を待たない。小長が「さあ打とう」と思うと角栄はもうとっくに先を歩いている。ボールが大臣にあたれば一大事。危なくて打てるはずはない。

では、どうするか。走るのだ。ボールを持って角栄のボールがあるところまで走る。そしてそこからまた角栄と一緒にスタートする。これが角栄のいう「秘書官ゴルフ」だった。
「うまい下手は気にしなくていい。何度かコースに出ているうちにうまくなるさ」
角栄の気配りだった。実際、2、3度コースに出たあと、小長も無理せず角栄とコースをまわれるようになった。

いくらストレス解消といっても、ゴルフは同伴者との貴重な情報交換の場でもある。そこに秘書官がいなくては、角栄といえども仕事にはならなかった。そして、何よりも小長は内心、角栄とゴルフを一緒にやりたかった。それを角栄は見抜いていたのだ。
決断は思い切って。しかし気配りは忘れず。繊細に優しく。田中角栄は、まさに細心豪胆を地で行くリーダーだった。
(前野雅弥)


{感想}

田中角栄氏と言うと、とにかく凄い方だったので武勇伝や伝説が絶えない印象があります。自分が知っているのは、田中角栄氏が訛りを気にして「六法全書」を丸暗記して、標準語で話せるようにしたという話でした。
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