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2020年10月25日13:21

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自分が殺さなかった肉を食べるということ

高校生らしき
女の子二人の会話。

A「あの店、
 死んだ牛の肉を
 出してたんだって〜」
B「気持ち悪〜い」

というのが有るw

こうゆうアホを
育てた親の顔が
見て見たいところだが、
もうひとつ、別の話。

北海道に
旅行に行った女性が、
羊の肉が美味しい
ということで有名な
レストランに
行ったときの話。

テーブルで待っていると、
コックらしき男性が、
かわいい「生きた子羊」
をつれてきた。
そりゃ、子羊なんて
超ラブリーだろうさ。

ところが、その男性、
「これを料理します」
とか言って
立ち去ったそうな。

女性は、
呆然としたそうだが、
料理されて出てきた
その子羊の肉を見て、
あのかわいかった
姿を思い出し、
かわいそうで、
涙が出て
止まらなかったそうな。
結局、その肉は
食えなかったらしい。

「豚のいた教室」
という映画がある。
2008年に
公開されたものだが、
この話は実話で
1990年から1992年まで、
実際に小学校で豚が飼われ、
当初の目的では、
その豚は、
育てた小学生たちが、
卒業前に食べる
という話だった。

しかし、
卒業する段になって、
殺すのがかわいそうになり、
結局、豚を自分たちで
殺すということはできず、
業者に引き取って
もらうことになる。

この映画を、
実際に屠殺業者の人は
見たのだろうか?
そして見たとき、
何を思ったのだろうか?

もうひとつ。

僕は肉が食えない。
いや正確には、
形状を維持した肉は
食べられない
という方が正しい。

ミンチなら食べられるし、
ハンバーグや
ミートボールは
むしろ大好きだ。
それどころか、
長時間煮込んで
ホロホロになった肉や、
ほとんどかまなくても
切れるような肉は、
美味しくいただくのだ。

つまり、肉が嫌いな
わけじゃないということ。
ただ、形状維持した
場合のあの食感が
耐えられない。

なぜそうなって
しまったかというと、
僕の祖母が、
僕の幼少のころ、
鶏の首を切断する場面を
見せてくれたことが
原因にあるのでは
ないかと予測される。

頭を持たれて、
逃れようと足や翼を
ばたつかせている鶏の首を、
包丁で、スカッ!
と切断すると、
地面に落ちた体だけが
立ち上がり、
首から血を吹きながら
数メートル走って、
転がり倒れ、
それでもまだ足を
ばたつかせている。

というシーンだった。

祖母は面白いもの
のつもりで見せてくれた
のだろうけど、
生き物の現在進行形の
死を目の当たりするのは
初めての僕には、
インパクトが
強すぎたのだろう。

それらを踏まえて。

むしろこれからが
本題(^^;

例えば仮に、
僕の目の前に
生きた牛なり豚なりを
連れてきて、
「さあ、これが
 お前の肉だ。
 殺して食え」
と言われても、
すぐには殺せないだろう。

腹が減って、
どうにもこうにも
ならなくなって初めて、
殺そうと思うかもしれない。

たぶん、多くの人は、
僕と同じ感覚だろう。
殺せといわれて
「はい了解」
と殺せる人は少ないと思う。

だからこそ、
「屠殺」は江戸時代、
最下層の人々の
仕事とされた。
江戸時代が終っても、
部落出身者の仕事にされ、
外国人に押し付けていた。

今でも、選んで
その仕事に突く人は
少ないのではないか?

もし、屠殺が、
公開制になったら、
それを見せられる人たちは、
どう思い何と言うだろうか?

殺さないで肉を得る方法を
政府や業者に
要求するに違いない。
「肉は食べない」
という選択肢は
ほとんど出てこないだろう。
肉100グラムを得るために
消費される穀物の量は、
数キロにもなるという。
それでも、人は
肉を求めるだろう。

しかし、かといって、
今最も可能性のある、
遺伝子組替や、
その技術の応用による、
生活するという意味では
生きていないが、
生肉として
精製できる方法は、
きっと受け入れられない。
遺伝子操作というだけで、
敬遠されるのだから。
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