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2020年02月27日14:55

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自分が殺さなかった肉を食べるということ

高校生らしき女の子二人の会話。
A「あの店、死んだ牛の肉を出してたんだって〜」
B「気持ち悪〜い」

というのが有るw
こうゆうアホを育てた親の顔が
見て見たいところだが、
もうひとつ、別の話。

北海道に旅行に行った女性が、
羊の肉が美味しいということで有名な
レストランに行ったときの話。

テーブルで待っていると、
シェフらしき男性が、かわいい子羊をつれてきた。
そりゃ、子羊なんて超ラブリーだろうさ。
ところが、その男性、
「これを料理します」とか言って立ち去ったそうな。
女性は、呆然としたそうだが、
はたして料理されて出てきたその子羊の肉を見て、
あのかわいかった姿を思い出し、
かわいそうで、涙が出て止まらなかったそうな。
結局、その肉は食えなかったらしい。

「豚のいた教室」という映画がある。
2008年に公開されたものだが、
この話は実話で1990年から1992年まで、
実際に小学校で豚が飼われ、
当初の目的では、
その豚は、育てた小学生たちが、
卒業前に食べるという話になっていた。
しかし、卒業する段になって、
殺すのがかわいそうになり、
結局、豚を自分たちで殺すということはできず、
業者に引き取ってもらうことになる。

この映画を、実際に屠殺業者の人は見たのだろうか?
そして見たとき、何を思ったのだろうか?

もうひとつ。
僕は肉が食えなかった。
いや正確には、形状を維持した肉は
食べられなかったという方が正しい。
ミンチなら食べられるし、
ハンバーグやミートボールはむしろ大好きだった。
それどころか、
長時間煮込んでホロホロになった肉や、
ほとんどかまなくても切れるような肉は、
美味しくいただくのだ。
つまり、肉が嫌いなわけじゃないということ。
ただ、形状維持した場合の
あの食感が耐えられなかった。
なぜそうなってしまったかというと、
僕の祖母が、僕の幼少のころ、
鶏の首を切断する場面を見せてくれたことが
原因にあるのではないかと予測される。
頭を持たれて、
逃れようと足や翼をばたつかせている鶏の首を、
包丁で、スカッ!と切断すると、
地面に落ちた体だけが立ち上がり、
首から血を吹きながら数メートル走って、
転がり倒れ、それでもまだ足をばたつかせている。
というシーンだった。
祖母は面白いもののつもりで
見せてくれたのだろうけど、
生き物の現在進行形の死を
目の当たりするのは初めての僕には、
インパクトが強すぎたのだろう。

それらを踏まえて。
むしろこれからが本題(^^;

例えば仮に、僕の目の前に
生きた牛なり豚なりを連れてきて、
「さあ、これがお前の肉だ。殺して食え」
と言われても、すぐには殺せないだろう。
腹が減って、どうにもこうにも
ならなくなって初めて、
殺そうと思うかもしれない。
たぶん、多くの人は、僕と同じ感覚だろう。
殺せといわれて「はい了解」と
殺せる人は少ないと思う。
だからこそ、
「屠殺」は江戸時代、
最下層の人々の仕事とされた。
江戸時代が終っても、
部落出身者の仕事にされ、
外国人に押し付けていた。
今でも、選んでその仕事に
突く人は少ないのではないか?

もし、屠殺が、公開制になったら、
それを見せられる人たちは、
どう思い何と言うだろうか?
殺さないで肉を得る方法を
政府や業者に要求するに違いない。
「肉は食べない」という選択肢は
ほとんど出てこないだろう。
肉100グラムを得るために
消費される穀物の量は、
数キロにもなるという。
それでも、人は肉を求めるだろう。
しかし、かといって、今最も可能性のある、
遺伝子組替や、その技術の応用による、
生活するという意味では生きていないが、
生肉として精製できる方法は、
きっと受け入れられない。
遺伝子操作というだけで、敬遠されるのだから。
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