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2021年09月16日21:58

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理不尽やストレスへの耐性作りの為に必要なんですよ。

校則は、子供本位で作られるものでは無く、学校運営の為のルールなのですから、大人本位に作られています。
ですから、大人が管理しやすいように作られているのも当然の話です。

ここを勘違いして、子供の為のルールと言う寝ぼけた話をし始める残念な大人が居るから、色々と勘違いが始まっているのでは?
無論、理不尽なルールや、人権を無視したルール、あるいは、ルールの曲解により趣旨を歪めた運用などは正す必要があると思いますよ?

敢えて言いますが、特別な人が、特別な価値観で、特別な目線で見た事を、大勢の人に当てはめるのは危険な行為だと思うんです。
ある意味、第三者的な立場に立てるのでしょうから、見えない事が見える事もあるのでしょう。ですが、その見えた物を多数派に当てはめるのは、ちょっと違う気がします。

そもそも、地毛証明書なるものが何故必要になったのか?という話ですよね。
今を切り取って見れば、首を傾げる話なのでしょうが、髪を染めるなというルールを守らず、髪を染めた挙句、地毛だと言い張る方々が居たからですよ。
言ってしまうと、地毛が黒くない人は、そういうルールを守らない方々の被害者であって、校則の問題では無いんですよね。
ここを歪めているから、世の中がおかしくなっていくんだと思うんですよね。
ルールを変えるのであれば、変えるなりの手続きがあるわけですが、それらを無視して勝手にやる事が、果たして正しいのでしょうかね?

私は間違っていると思うのですが、そういう誤りを正さずに、子供に日和る大人が居て、理解があるように見せかけ無意味に甘やかし、社会に放り出してきたわけですよ。

その結果、何が起こっています?

自分達に都合が悪いルールは、理不尽だと決めつけ、それに対する不満を言うだけで、改善するわけでも無く、会社を辞め、次の会社に移って行く方々が年々増加しているわけですよね。それでうまい具合に収まる場所が見つかれば良いのでしょうが、そうじゃない方々の人生は?

日本経済の停滞の問題を国に求めているわけですが、果たして本当にそうなのですかね?
働く側の問題もあるのではありませんかね?
ですが、ルールが悪いとルールを破る事を厭わず、その結果、理不尽に感じても守るという意識が欠落し、言ってしまえば、より楽な方を選択し続けているのではありませんか?
そういう積み重ねが、経済活動にブレーキを掛ける要因になっているのでないでしょうか。

今更、精神論や根性論を言ったところでどうなるものではありませんが、それが主体であった時代、自殺者の数は、今よりも少なく、経済は右肩上がりだったわけです。
理不尽な校則を守り、こっそり破り、バレて怒られ殴られていた時代で育った人達、理不尽と思いつつもルールはルールと守らせていた教師が居た時代に育った人達と、そうじゃなくなった時代に育った人達が居るわけです。
昨今の何某かを見ていると、若くして億単位の金を手にする人達が確かに増えています。
恐らく、精神論、根性論主体の押し付けの教育では到底出てこなかった人達なんだと思いますよ。

ですが、それ以外の人達は?

何も言わなくても頑張れる人、工夫ができる人、賢い人、環境に恵まれている人は居るわけです。
ですが、そういう人達だけなのでしょうかね?

日本には法律があり、社会には暗黙の了解があるわけです。
ルールやマナーは、自分にとって不都合な物でも、多くの人が円滑に生活していくために必要だから存在するわけです。
それらを共通認識とする事で、無駄な時間を削減し、円滑で効率の良い社会が構築されていくわけです。
学校とは、そう言った社会に適応するための教育機関であり、所謂お勉強は、そう言った社会で良い生きやすくなるために必要な知識を得るための手段なんですよ。
所が、それらが何時しか歪んでしまい、手段が目的となり、一番肝心な社会性を教える事を学校が辞めてしまったんですよ。
そこで残ってしまったのが所謂、校則なんだと思いますよ。
ですが、今まさにその校則すら無くす方向の話が跋扈しているわけです。

理不尽な要求に晒される事無く育ったら、どの様にして理不尽と相対するのでしょうか?

それらの対処方法に答え何て無いんですよね。
それこそ、個性があるわけですから、自分に合った様々な対処方法を見つけていくしか無いわけですよ。
学校は、その機会を与え、学ぶ場所でもあるんですよね。
ですが、学校の理不尽を一つ一つ大人が取り除いて行っているわけです。
もう滑稽としか言いようが無いんですよ。

ストレス耐性の無い、理不尽さへの対処方法も学んでいない、純真無垢な間抜けを大量生産し、社会に送り出す機構を作っているんです。
それを良しとする大人が居て、それを良しとして受け入れる子供が居て、都合の良い海外の事例は見るけど、都合の悪い海外の事例は無かった事にするわけです。
自ら学び能動的に動ける人は、何の問題も無いんですよ。
ですが、そういう一握りじゃない人達は?

学校なんて理不尽なルールがあって丁度良いんですよ。
その理不尽さとどのように対応していくかが、本来は楽しむべき要素なんですよ。
校則も、何処までが許容され、何処からが厳罰に処せられるかを知る事で、加減を覚えるわけですよ。
加減が判らない人は、相応の罰を受け、場合によっては退学になったりするわけです。
そうやって、社会に適応するコツを身に付けていく場所なんですよ。

ですが、大人が大人目線で、そういう理不尽を取り除いて、楽を覚えさせるから、残念な子供が、残念な大人に育っていくのではありませんかね?

ルールを守っていればそれで良いという残念な大人は少なからず居ます。
ですが、そのルールの水準が下がったら?
守るべきルールが、到底まともな社会を維持するに至らないレベルになってしまっても、ルールを守っていればそれで良いという話が通用するのでしょうかね?

人の見た目はとても大事なんですよ。
どの様に見せるのかというのはとても重要なんです。
人と見た目が異なる人は、ここに理不尽な物を感じるのでしょうけど、長い人生、その見た目と付き合っていくわけですよね。
学校と言う限られた空間で、それに対応する術を身に着けずして、説明の機会すら与えられない世の中に出たらどうなると?

学校が見た目を縛るのはとても合理的な話なんです。
それがとても分かりやすいからなんですよ。
反発するのも良い事なんですよ?
無論ルールがある以上、それ相応の罰は受けるのでしょうけど。
ですが、そこで覚えるわけですよね。反発するとどうなるかって。それでも反発し続けるのも良い事なんですよ?
アウトローって、そういう生き方なんですから。
ですが、昨今何かにつけて「風」な方がいらっしゃるわけです。
アウトロー風な人は、罰が嫌だから、ルールを変えてと大人に訴えるわけですよね。
意識高い風の人は、子供への理不尽なルールの撤廃を大人に訴えるわけでしょ?
善良風の子供達は、自らの意見を言わない代わりに、より楽な意見を指示して、世の中のせいに、大人のせいにするわけですよね。

大人が悪い世の中が悪いと言うだけなんですよね。

では、自分が大人になったら、どうするの?という話ですよ。
もう変えてくれる大人は居ないわけですよ。
すると、今度は、国が悪い、政府が悪いですか?w

老害だ、今の高齢者が悪いという話も耳にしますが、その老人達が自分達の行いを悔い改め、世の中を良くしてから引き継いでくれるとでも?w

結局は、今の時代を生きている自分達が何とかするしか無いわけですよ。
極々当たり前の話であるにも関わらず、今日も誰かのせいにして、生きている人達がいるわけですよね。




■アルビノの私は「異物」だった「正しい見た目」決める学校への違和感 大人の都合で子どもを支配する危うさ
(ウィズニュース - 09月16日 07:00)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=220&from=diary&id=6669287

肌や髪の色が薄く生まれる遺伝子疾患・アルビノの雁屋優さん(26)には、忘れられない記憶があります。学生時代、校則により、生徒たちの外見が規制されていたことです。自らは「例外」として指導対象にならなかったものの、髪を染めていた同級生が、教師に注意される様子を目の当たりにしました。頭髪が生来のものと示す「地毛証明書」制度など、「正しい見た目」という概念に基づき、大人が子どもの容姿を規定する例は、後を絶ちません。その判断は、決まりを定めた側の意向次第で、簡単に変わるものでもあると、雁屋さんは考えています。背景にある理由について、意見をつづってもらいました。
【画像】白、金、茶……多様な髪色、アルビノの人々「変わった」見た目が理由で手を切断された人も

金髪に染めている、あの子は「不良」?
最近、ある本を読んだ。今年8月に刊行されたばかりの、『見た目が気になる 「からだ」の悩みを解きほぐす26のヒント』(河出書房新社)。「見た目」にまつわる悩みを抱えた十代に、各界で活躍する大人たちが、生きやすくなるためのヒントを伝える内容だ。

26人の著者は、社会学者や漫画家など、それぞれに個性豊かである。生まれつき外見に症状があり、人生の色々な局面で苦労する「見た目問題」の当事者もいる。アルビノである私の心にも、響くメッセージばかりだった。

私自身、周囲との「見た目」の違いに、居心地の悪さを感じてきた一人だ。例えば、髪。今はミルクティーブラウンといった色合いだが、幼い頃はもっと色素が薄く、ブロンドに近かった。特に学生時代は、黒髪ばかりの同級生の中で、ひときわ浮いていた。

小学生の頃、大人たちの中には、私の髪色を「きれいな色だね」と褒めてくれる人もいた。ところが同じ人物の口から、「金髪は不良だ」という言葉が飛び出て、驚いたことがある。ファッションで髪を金色に染めていた、同級生に対する発言だった。

その生徒は、別に素行が悪かったわけではない。外見を除けば、ほかのクラスメイトと比べて、特段目立つ存在でもなかったと思う。にもかかわらず、「不良」とジャッジされていた。

もちろん、私が知らないところで、好ましくない行動をとっていた可能性はある。しかし仮に、本人の振る舞いとは関係なく、金髪であることがマイナス評価につながっていたとしたら、その判断は適切と言えるだろうか。

『見た目が気になる』の中では、社会学者の森山至貴さんが、「見た目」とその人自身を完全に切り離せるのか、考察している。ある人の人格と、「見た目」の印象が一方的に結びつくことで、その人の尊厳が傷つけられてしまう危険性は、常にあるのだ。

校則は「子ども本位」でつくられているか
私が子どもの頃、周りの大人達は、「見た目なんか気にしている暇があったら勉強しなさい」と言った。そうして、子どもたちメイクやファッションを制限した。

私は幸か不幸か、メイクやファッションよりも活字に興味があり、大人に制限されるようなファッションをしたいとも思わなかった。ピアスは痛いと聞いていたので恐ろしく、今でも、ピアスの穴はない。

見た目なんか気にしている暇があったら、と言う割に、大人達は「見た目」にうるさかった。象徴的だったのが、私が通った中学校の校則だ。

制服の着こなしに始まり、髪の長さを制限したり、染髪を禁じたりと、身なりに関するものだけでも多岐にわたった。ただ、それでも、まだ「まし」な方だったと思う。

女子の髪型はおさげしか認めない。生まれつき色素が薄い髪も黒く染めなくてはならない。冬でも黒タイツの着用を認めない……。伝え聞いた他校の校則の内容は、いま思えばびっくりするようなものばかりだった。

こうした決まり事は、教育上の理由からつくられている。児童・生徒が自ら物事を考え、判断する力を育むために、人生経験が豊富な大人の手助けは不可欠だろう。社会性を養う上で、一定のルールのもと、集団生活を送る経験も大切だ。自立に向けた訓練の場として、学校を位置づけるなら、校則の必要性も理解できる。

ただしその細目は、あくまで「子ども本位」で定められるべきだ。例えば生来髪色が薄い私が、「黒染め」を強制されたらどうなるか。地毛が傷むのはもちろん、皮膚に異常が生じるかもしれない。中学時代、教師から染髪を命じられたなら、きっと反発しただろう。

大阪府では府立高校に在学中、茶髪を黒く染めるよう「指導」され精神的苦痛を受けたとして、元生徒の女性が訴訟を起こした。また沖縄県教育委員会は、頭髪が生まれつきのものと示すため、学校に提出する「地毛証明」が人権侵害にあたるとして、県立高に廃止を求める方向で検討している。

校則が、本当に児童・生徒のためにつくられているか。「子どもを管理しやすくしたい」という、大人たちの意図が含まれていないか。これらの点は、何度でも問い直されなければならないはずだ。多様な「見た目」が、当たり前に存在する社会を目指すためにも。

同じ「校則違反」でも、対応に差が出る危うさ
そしてこれは、頭髪に限ったことではない。

なぜ、女子がスカートで男子がスラックスを履くと決められているのか。
なぜ、男子がネクタイで、女子がリボンなのか。
そもそも、性別によって、着る服が決められることはおかしくないのか。

学校という場は、子どもの「見た目」をありとあらゆる面で、規定し過ぎているように思う。髪色や髪形を画一化し、性別によって決まった制服を着用させる。その規定は、本当に必要で、合理的なのだろうか。

もちろん、そこには子どものためを思って、という気持ちがあることも否定できない。学校ではよくても、就職などで社会に出たとき、不利になるようなリスクを背負わせるようなことはさせたくない、という配慮もあるだろう。

しかし、中学時代、私のブロンドを、学校側は問題視しなかった。一方、生まれつき髪の色素が薄い別の学生は、指導対象になっていた。同じ条件なのに、人によって、なぜか対応に差が出る。そこには、子どものためを思って、という理由だけでは説明できない根深さを感じる。

「染髪禁止(ほとんどの場合、黒髪でなくてはいけないと解釈できる)」という校則がある限り、ブロンドの私は、例外で、特別に存在を認められている、いわば異物だ。しかも運用する側の裁量で、その判断はたやすく覆る恐れがある。

制服の件も同じだ。割り当てられた性別に応じたデザインの服を着ることが当然視されるなか、異性向けの制服を着たければ、学校に「申請」し、「許可」をもらわなければならない。それが、例外で、特別だから、他の人にはいらない許可がいる。性別で服装を左右する校則は、性自認に悩む子ども達を傷つけるだろう。

こうして文章にしてみると、校則はあるべき「見た目」を規定するだけでなく、ややもすると支配につながりかねない危うさをはらむことに気付く。「ふつう」と異なる外見に向き合ってきた一人として、このような現状は、やはり改められなければならないと強く思う。

「正しい見た目」を決めつけないために
今、『見た目が気になる』のような本が出版されたことそのものが、希望だと言える。他人の「見た目」を「こうあるべき」と規定する側の方がおかしいと、しっかり説明できる大人の主張が、世間で受け入れられやすくなった証拠だからだ。

他人の「見た目」に介入することに、もっと慎重であるべき、という考え方は極めて自然だ。ただ、油断してはいけない。「見た目」への介入が学校や職場など、あらゆるところで当然のごとく行われていることを考えると、折に触れて思い出さないと、その重大性が簡単に忘れ去られてしまう。

だから、もし今あなたが「見た目」に悩んでいるなら、希望を捨てないでほしい。そして「正しい見た目」を決めつけることについて、考え直すきっかけとして、『見た目が気になる』が広く読まれるよう望んでいる。

ウィズニュース

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