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2021年03月26日22:15

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フィクションとして考えたい。

現実にあった話で、関係者が居て、親御さんの気持ちを考えたら何も言えなくなってしまいます。
なので、絵空事の話として考えてみます。

体罰を含む行き過ぎた指導とありますが、本文中の何処にも体罰と思われる記載がありません。

「声が出せないなら、帰れ」
「いらんわ。おまえなんか制服に着替えて帰れ」

この前に何があったか知りませんが、こういう言われ方をするという事は、他の部員と比べ、声が小さい等の問題があったのではないのでしょうか。
であれば、普通にこういう言われ方をするでしょうし、体育会系を自認する部活動であれば、発奮材料として、この手の物言いはしますよね。
これに対して、反骨心を持ち、帰りません!と大きな声で返す所まではセットなのでは?
そもそも、

>>自分はチームにとって存在価値がない

と思ったのであれば、日記に書かずに去れば良いんですよね。
存在価値が無いと思い、存在価値を高める努力をしたのか?という話になるわけですよ。
それが出来ないのであれば、諦めて別の道を探せば良いだけで、高める努力をするのであれば、人並みでは話にならないわけです。
自己評価の時点で、人並み以下と感じているわけですから、人並み以上の努力をしてやっと人並みになるわけです。存在価値のある人間になりたいと思えば、それ以上の努力が必要になるわけですよ。

そういう自覚があったのだろうか?

と、そう感じてしまうわけです。
逆に、そういう自覚があり、そういう取り組みをしていたのであれば、声出し程度の指摘を受けるはずも無く、帰れと言われて、退部に至る事も無かったのではないのでしょうか。

部を去り、マネージャーとして復帰するわけですが、聞きようによっては、美談のテンプレなわけです。

一度はあきらめたけれども、諦めきれず、その道に関わりたく裏方を選んだ。

ただこれが本当に美談じみた話なのか?と言えば、そうでは無いわけですよね。
これが例えば、身体的な問題が生じ、新たな道を模索するのが困難な状況であれば、せめて、今まで親しんだ環境で自分を生かしたいという思いはわかりますし、そこまでする位、その道が好きなんだという話になるのですが、10代で、五体満足で、それはちょっと違うと思ってしまうわけです。
その選択は、自分の可能性を狭める行為にしかならないんですよ。
野球部を選択するくらいですから、それなりの身体能力を有しているわけです。
野球が不向きであったのなら、別の道は幾らでもあるわけです。
それにも関わらず、そこにしがみ付くのは、窓際に追いやられても会社を辞めないサラリーマンと同じ心持なのではありませんかね?
窓際サラリーマンなら、他に行っても生きる道が無いという思いもあるのでしょうが、それなりの年齢でしょうから、それもまた已む無しという話になるのですが、可能性という話であれば、無限とは言いませんが、道は幾らでもあるわけですよ。
それにも関わらず、他の道に進むわけでも無く、体が動くのにも関わらず、野球をするわけでも無い、マネージャーに収まろうとしたわけですよね。
仮にサッカー等の他の運動部に行き、何か違うと思い、野球がやりたいという気持ちが勝ったのなら、何を言われようが、監督にそれこそ土下座をしてでも、野球部に部員として戻る話なのでは無いのでしょうか。
逆に、そういう気持ちになれなかったのであれば、所詮はその程度の思い入れだったという事になるんだと思うんですよ。
酷な言い方をしますが、何が何でも野球をやりたい、言ってしまえば甲子園のグランドに立ちたいという思いで練習している人達の中に、そこまでの思い入れの無い人が入っていれば、悪目立ちしてしまうわけです。
その結果が、監督の厳しい叱責に繋がったのではないのでしょうか。
脳筋の方が、懇切丁寧にその辺りの機微を伝えられるわけも無く、本人の想いを図り、本人に進む道を選択させる方法として、厳しい叱責というのは、取りえるある意味最良の指導だったのではありませんかね?
それが証拠に、マネージャーとして戻る事は受け入れているわけですよね。
そこまで野球に関わりたいのか?というある種の恩情で受け入れたのではありませんか?
今時は知りませんが、私が中高生の頃、辞めた部活に戻るなんて、仮に監督が許しても、チームメイトは許さない風潮はありましたけどね。

そもそも、マネージャーとして部に戻るように勧めた友人も一体何を言って連れ戻したのか?という話しなんですよね。

>>復帰3日目の練習後、グラウンドに1人残され、監督から「マネジャーならグラウンドから目を離すな」「きちんと仕事をしろ」などと叱責された。

3日目にして、監督から熱意を疑われるような行動を取ったわけですよね。
その挙句が、

>>もう俺はマネジャーじゃない。存在してるだけだ

と言い残し、自殺に至るわけです。

この流れを読んでいると、死にたがっていたとしか思えず、そのタイミングを見計らっていたのでは?と思ってしまうわけです。
恐らく、部を去った時に、既に、そういう思いを持っていて、それを察した同級生が気遣いから野球部に連れ戻したのかも知れません。
そうなると、中段の話に戻るわけですが、果たして本当に野球が好きだったのか?という疑問と、そこまででも無い野球への思い入れ程度で、何故自殺を選んだのか?と思ってしまうわけです。

私はこの少年に激しい憤りを禁じえません。

死ぬくらい野球が好きなら、草野球のチームを探して、何故、そこで野球を続けなかったのかと。
死ぬ程度の思い入れの野球に、何故固執したのかと。

私が思うに、甲子園という名前に憧れていただけなのでは無かったのでしょうか。
その道が閉ざされた事で、周りが見えなくなってしまったのではないのでしょうかね。

フィクションと前置きをして、自殺した少年を批判したのは、恐らく若年層の自殺の根の一つだと感じたからです。
その原因を考えるためには、何が問題なのかを考える必要があるからです。
私が思うに、学校教育そのもの問題があるんだと思うんですよね。

ゆとり教育時代に、学校の成績以外の部分での順位付けをやめてしまっていますよね。順位付けは劣等感を受け付ける一方で、優越感も持たせるわけです。
万能な人間なんて極めて稀な存在で、人は誰しも得意、不得意があるわけです。
得意な分野でも、1位になれるのは、一人だけで、得意であっても、大勢の中の一人である事の方が多いんですよ。
ですが、順位付けをやめてしまった事で、自分のポジションがわからない子供が多いのではありませんかね?
自分を過小評価したり、過大評価し、等身大の自分が見えない子供が多いのではありませんか?
その結果、自分を過大評価していて、同じ水準の群れに入った時に、実際には中の上程度と認識してしまった時のギャップ。あるいは、中の中だったと感じたときのギャップが埋めきれないのではありませんかね?
小さいときから、優劣を感じて、その優劣が適正に感じる事が出来たのであれば、自分の得意、不得意を覚え、ある程度の挫折を感じ、劣等感との付き合い方、優越感のいなし方を覚えていくのではないのでしょうか。
これは見た目問題にも言えるのですが、今の見た問題って、当初出ていた病気レベルの見た目問題ではなく、普通のレンジ内の見た目問題になっていますよね。
好みの範疇であっても、劣っている部分に劣等感を覚え、整形に走るわけです。
自分の外見を変える=別の自分になるという事は、遠い意味合いでは自殺と同義だと思うんです。

この手の問題は、被害者がいるのでどうしても、被害者よりの判定になるのですが、被害者の被害者になるバーが、昔と比べると大幅に下がってしまっているわけですよ。
それを更に下げ続ける判断を続けているわけです。

教育関係者は、本当に今の教育方針で良いのか、問題点は無いのかを真摯に考える必要があるのではありませんかね?

努力とは何か。
努力とはどうするべきは。
努力の結果はどう受け止めるべきか。

恐らく、この程度の事もゆるゆるな捉え方しかできていない子供が居るのではありませんか?

努力とは、目標に近づくための継続力ですよ。
努力とは、他者との比較ではなく、自分と目標の距離感がどのように変化しているかを捉えるべきなんですよ。
努力の結果は、他者との比較、到達域と目標との距離なんです。

私がスポーツが嫌いなのは、この辺りにもあるのですが、負けて、その場で泣く輩が嫌いなんですよね。
勝った側の気分が悪いんですよ。
負けたのは、運を含め、相手が自分より勝っていただけの話なんですよ。
自分がどれだけ努力したと自負していても、相手がそれよりも努力が勝っていただけの話なんですよね。
負けたその場で泣く、悔しがるという事は、努力に勝る相手を愚弄する事になる事に気が付いて欲しいんですよね。
勝った側からすれば、仮に僅差であっても、相手より勝っているわけです。
自分の努力が相手よりも勝っていたことを確認できたわけですよ。
それを相手が悔しがるという事は、自分よりも努力が勝っていたと思い込んでいたわけですよね。
要するに、見くびられていたという事になるわけです。

努力の意味、意義が理解できていたら、到底できる行為では無いわけですよ。
努力が劣っていたことが確認出来たら、さらなる努力を続け、それが続けられない領域になっているのなら、そこまでの話で、それは趣味に留め、別の道を探すしかないわけです。

話が逸れましたが、そういう事すら教えられない教育なのであれば、それは教育そのものの方向性が誤っているんですよ。
だから、より知識の無い、経験の無い子供が、一つの道に固執し、思い込み、それが閉ざされたらこの世の終わりと思ってしまうのではありませんかね?
可能性は無限にあると言う教育を行うつもりが、1本道しか見えないような子供に育てているのではありませんかね?
個性を育てると言いながら、万能タイプしか評価されない教育方針になっているのではありませんかね?
個性を伸して他もそれなりの万能タイプなんて、何人なれるのですかね?
個性を伸ばせば、他の残念な部分が際立つこともあるわけですよ。
そのデメリットをちゃんと教育できるカリキュラムになっているのでしょうか。

子供が自殺する原因は、今や多岐に渡り、何が原因と言い切れない状況になってきているわけです。
ですが、恐らく根っこは、それほど多くは無いと思うんですよ。
私は、その一つが、人としての基本的な部分を教える事を止めてしまった学校教育にあると思いますよ。




■岡山県立高の野球部員自殺「監督の叱責が原因」 調査委
(朝日新聞デジタル - 03月26日 15:46)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=6461100

 2012年7月、岡山県立岡山操山(そうざん)高校(岡山市中区)の野球部マネジャーだった2年男子生徒(当時16)が自殺した問題で、県教育委員会が設置した第三者調査委員会は、当時監督だった男性教員が体罰を含む行きすぎた指導で萎縮させたうえ、直前に厳しく叱責(しっせき)したことが原因と認定した。


 第三者委は26日、県や県教委に報告書を提出した。男子生徒が自殺したのは12年7月25日夜。報告書によると、男子生徒は11年春に入学後、選手として野球部に入部。1年生だった秋から、日誌に「自分はチームにとって存在価値がない」と記すなど悩んでいた。


 翌12年春以降は、監督から練習試合前に「声が出せないなら、帰れ」「いらんわ。おまえなんか制服に着替えて帰れ」と怒鳴られるなどの指導を受け、同6月に退部。同級生に誘われるなどして同7月23日にマネジャーとして復帰した。


 復帰3日目の練習後、グラウンドに1人残され、監督から「マネジャーならグラウンドから目を離すな」「きちんと仕事をしろ」などと叱責された。生徒は一緒に下校した部員に「もう俺はマネジャーじゃない。存在してるだけだ」と言って別れた後、自殺した。


 第三者委は以前から監督を怖がっていた生徒が、このグラウンドでの激しい叱責で「自分自身の存在価値を改めて否定したものと考えられる」と指摘。自殺の主な原因になったと結論づけた。監督の言動については「教員という立場を利用したハラスメント」とも批判した。


 県教委は自殺の直後に部員や学校関係者らに聞き取り調査をし、指導と自殺の因果関係は不明だとしていた。両親側が再調査を要望し、県教委は17年に第三者委の設置を決定。18年8月に初会合が開かれ、原因などを調べていた。


 第三者委は問題発覚前後の学校や県教委の対応についても「遺族の心情に寄り添っていない」「調査が不十分」などと批判。第三者委の発足まで6年以上経過したことなどを理由に「遺族が知りたいと考える事実すべてを解明することはできなかった」とした。(吉川喬、華野優気)


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