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2020年07月09日12:40

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間違っていない。

自己肯定感もそうなのですが、間違っていない。という考え方を正とする発想が、こういう事に繋がっているのではないのでしょうかね。
それが、この母親は、子殺しという形で出てきただけなのではないでしょうか。

母親が24歳 子供が3歳 妊娠したのが20歳で、父親がいない。

何処も間違ってはいませんが、正しい形ではありませんよね。
何をもって正しいというのか?と問われれば、言葉に窮する事もありますが、それ故に、「間違っていません」という言葉がまかり通る世の中になってしまったのかと。
価値観の多様化という言葉を錦の御旗の如く振りかざし、旧来の常識を否定し、間違ったことはしていないと力強く主張し自由を謳歌する世の中です。
ですが、正しいありかたというのは間違いなくあるわけで、その対極が間違ったあり方なわけです。その間には、とても大きな幅があり、「間違っていなくても正しいとは言い難い」状況というものが包括されます。
問題は、「正しいとは言い難い」という言葉を省略し、「間違っていない」という主張を正の如く捉えてしまっている事ではないのでしょうかね。

敢えて言いますが、父親が居ない正常な状態ではありません。

この認識が、間違っていないという考え方が押しやってしまうから、間違った行動を正としてしまうのではないのでしょうか。

24歳の女性が、鹿児島の男性の元に8日間遊びに行くことは間違いではありませんよ?
24歳の子持ちの女性が、8日間遊びに行くことも間違いではありませんよ。
24歳の子持ちの女性が、子供を預けて8日間遊に行くことも間違いではありません。
24歳の子持ちの女性が、子供を自宅に置いて、8日間遊びに行くことも間違いでは無いんですよ。
子供を一人で留守番させることは間違いではありませんよね。
子供が一人で留守番するとき、不用意に外に出られないよう対策するのは間違いではありませんよね。

では、何を間違えたのか?と言えば、一人で自宅に置いて長期間不在にした事です。

この母親が、正しい行動を取るよう心掛けていたら、あるいは、間違っている事を自覚し行動をしていたら、状況が変わったのではないのでしょうか。

正しい行動を取ろうとするから、間違った行動を自覚する事が出来るんですよ。
ですが、間違っていないという考えを軸にすると、あらゆる事が間違っていない事になってしまうんですよね。
何故なら、正解は状況によって変わるものですから、明確に間違いだと指摘する事は難しいからなんですよ。

24歳の女性なら間違っていない行動であっても、24歳の母親だと間違いとなる行動があるわけです。
短時間の留守番なら間違いじゃない行動も、長期間だと間違いとなる行動があるんです。
父親が居るのなら間違いじゃない行動も、父親が居なければ間違いとなる行動があるんですよ。
ケースバイケースで、正解が異なる中で、間違っていないという考えが軸になると、総当たりで否定しなければ、正解には辿り着かないんです。
反対に、正解に辿り着こうと考えていたならば、間違いに気が付き、より正しい選択に短期間でたどり着けるんですよ。

では、この母親にとって、何が正解だったのか?

1.妊娠するような行為をしない。
2.離婚するような相手と子供を作らない。
3.子供が出来たのなら離婚をしない。
4.離婚をしたなら、父親候補を探す。
5.良い父親が見つかったのなら、母親の範囲で人生を謳歌する。
6.父親が見つからないのであれば、子供と二人で楽しめる人生を模索する。

正解を探すのであれば、こういう話になったのではないのでしょうかね。
24歳の母親が、24歳の女性と同じ価値観を持ってしまったのが間違いだと思うんですよね。
だから、24歳の女性では間違いじゃない行動でも、間違いになってしまったんだと。

24歳の女性として間違っていない行動ではなく、24歳の母親として正しい行動を取ろうとしていれば、こういう事態にならなかったのではないのでしょうか。

冒頭かきましたが、たまたまこういう結果になってしまい、子供が亡くなっているので、とかくそちらに意識が引っ張られていますが、もっと手前の同じような話が数多くあるのではありませんかね。

昨今耳にする自己肯定感も同じような話だと思うんですよ。
自己肯定という言葉あるにも関わらず、何故、自己肯定感を求めるのか?
自己肯定をすれば、自然と自己肯定感は得られるにも関わらず、自己肯定をせずに「感」を求める。
自己肯定をするのは、とてもハードルが高いんですよね。
ある事例について、自己を肯定できるまで、高める努力が付いてくるからです。
また、自己を肯定する過程に、自己の否定もついてくるわけですよ。
言ってしまえば、自己を否定し否定しきって残ったものが、例えどんだけ小さくても肯定する要素になるわけです。
その痛みや、努力をすることなく、安易に求めるから「感」なのではないのでしょうかね。

正解のようなもの=間違っていない。
自己肯定のようなもの=自己肯定感。

この母親のやったことは、許しがたい事で、死刑になっても何の同情心もわきません。
ただ、そこだけを見ていたら、本質が見えてこないのではないのでしょうかね。
なぜ、このような事が起きたのか。
そこに目を向けると、ここまでに至っていなくても、同じ方向性の話は無数にあるのではないのでしょうか。
その無数にある同様の人達が、たまたま大きな間違いを起こしていないだけで、間違っていないと選択をし続けた先にで、大きな問題に発展するのではないのでしょうかね。



■3歳女児衰弱死、母「ドアをソファで塞いで外出した」
(朝日新聞デジタル - 07月09日 05:13)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=6150616

 東京都大田区のマンションの一室で6月、女児(3)が飢餓と脱水で死亡した事件で、保護責任者遺棄致死容疑で逮捕された母親(24)が調べに対し、「当時、居間のドアをソファで塞ぎ開けられないようにして外出した」と供述していることが捜査関係者への取材でわかった。女児が居間から出た形跡は確認されておらず、母親の8日間の外出の間ずっと居間に閉じ込められていたとみられる。


 母親は事件以前にも、女児を1人自宅に残し、パチンコや飲み会などで出かけていたといい、警視庁は閉じ込めが常態化していたとみて調べる。母親は「死ぬとは思わなかった」と話しているという。


 捜査1課などによると、母親の梯(かけはし)沙希容疑者は勤務先の居酒屋で知り合った男性に会うため、長女の稀華(のあ)ちゃんを自宅に残して6月5日から鹿児島県を訪問。13日に帰宅し、119番通報した。


続きはこちら
朝日新聞デジタル

他紙引用

◆脱水と飢餓で…
 逮捕容疑では、6月上旬、長女稀華のあちゃん(3)をアパートの自室に残して外出し、十分な食事や水を与えないまま脱水症状と飢餓で死亡させたとされる。
 捜査関係者によると、梯容疑者は数年前に離婚し稀華ちゃんと2人暮らし。6月上旬に8日間、鹿児島県に住む交際男性に会いに行き、帰宅した13日夕、「娘が息をしていない」と119番した。救急隊員が駆け付けると、稀華ちゃんは心肺停止の状態でマットレスに横たわり、搬送先の病院で死亡が確認された。
◆日常的に虐待か 室内には大量のごみ
 司法解剖の結果、遺体に目立った外傷はなかったが、虐待や強いストレスを受けたときに見られる胸腺の萎縮の所見があった。
 捜査関係者によると、稀華ちゃんの体重は標準より約3キロ軽く、胃の中は空に近い状態だった。おむつを替えないことでできたかぶれもあり、室内には大量のごみが散乱していた。
 稀華ちゃんの遺体発見後、梯容疑者は自殺を図って入院し、一課は回復を待って逮捕した。逮捕前の事情聴取には「娘と一緒にいたが、数日前から体調が悪く、ご飯を食べなかった」と説明したという。
    ◇
◆住人「子ども見たことない」「泣くこともできなかったのか」
 現場のアパートの住民らは、子どもの姿さえ見たことがないと口をそろえ、3歳の女の子が8日間も部屋に1人だったことに驚きを隠せない様子だった。
 梯容疑者宅の隣に住む女性は「子どもの存在は知らなかった。泣き声も大きな物音も聞こえなかった」と話す。事件発覚後に訪ねてきた捜査員から、死亡したのが女児だと聞かされたという。女性は「3歳じゃ助けを求めることもできないはず。母親は誰かに世話を頼んだりしなかったのか」と憤った。
 上の階に住む会社員男性(48)も「泣き声はもちろん、遊ぶ声も聞こえなかった」と稀華ちゃんの存在に気付いていなかった。「8日も放置するなんて信じられない。なぜ泣き声が聞こえなかったのか。泣くこともできなかったのか」(西川正志)
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