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2020年06月01日23:01

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何て言うのか、真面目に考え議論されているのだろうか?という疑問。

言葉の暴力の問題視???
これは言葉の暴力と言うよりも、数の暴力なのでは?

これって、そのまま「イジメ」の構造ですよね。
言葉の暴力は、イジメの手法であって、事の本質ではないんですよ。

この女性は、イジメの標的になり、言葉を使ってイジメられ、自殺に追い込まれたんです。

標的にしたのは誰で、
イジメたのは誰で、
首謀者は誰なのか?

という話なんですよ。
更に言うなら、何故このような事が起きたのかを追求する事で、学校のイジメも減らせることが出来るのでは?
ただ、恐らく本当に責任を負うべき何物かに忖度して、話をそらせているだけなのでは?

とても良く分かりやすいのは、この事がきっかけで、誹謗中傷を行っている人を特定する事が容易になる法律の話になったとたん湧いて出た話ですよ。

私Bさんの事を応援していたので、Aさんの行動に問題があると書き込んでしまったけど、これは誹謗中傷になるのでしょうか、私も特定されて罰せられるのでしょうか。

という類の話です。
これがそのまま学校で行われているわけですよ。
イジメって、特定の集団が、特定の個人に対して犯罪行為を行う事じゃないんですよね。
それをイジメと言うから、本当の意味で質の悪いイジメが無くならないんですよ。
犯罪行為は犯罪行為として罰すれば良いのですが、自殺に追い込むイジメの多くは、この手の無責任な一個人の無自覚な発言なんですよ。
ただ、多くの場合、この手の話は無かった事にされ、何ら問われることが無いので、そのまま大人になり、或いは、大人になる過程で、今回の様な書き込みを行ってしまうんです。
そういう人が、無数にいるんですよ。

標的=イジメて良い人認定。

これは色んな形で行われるわけです。

クラスで目立つ人が、残念な人を弄る。
特定の集団に居た個人をその集団が何かをきっかけに無視する。
ちょっとしたネガティブな事を噂し尾ひれを付ける。

まだまだありますよね?

その発する側の個人からすれば、他愛も無い事なんですが、それ数になると、暴力に変わるんですよ。
ひょっとしたらフォローしてくれる声もあるかも知れませんが、その単位の桁が違えば、当人には届かず、孤立したように感じてしまうのでは?

直接的な誹謗中傷もそうですが、他愛も無いネガティブは意見も、追い込まれた側からすれば、同じ意見に感じるものなのでは?

その事柄に全く無関係の人間が首を突っ込むからおかしくなるんですよ。
首を突っ込むなら当事者意識を持てば良いのに、その意識が希薄だから、現代社会のイジメが発生するんです。

昔は、所謂スネ夫タイプの人間は嫌われ、精神的に距離を置かれていたんです。
強者の陰に隠れて、強気の発言をする、所謂、虎の威を借る狐って奴です。
自分自身の実力以上に、自分には影響力があると思わせたいタイプです。
この手の人間が徐々に増え、ある日、集団のスネ夫がジャイアンを潰しちゃったんですよ。
その結果、ジャイアンの居ない教室に、無数のスネ夫と少数のドラえもんが居ないのび太だけの世界になったんです。
稀に、ジャイアン?と思わしき人も居るのですが、それはジャイアンではなく、凶暴化したスネ夫にすぎません。
ジャイアンという虎が使えなくなり、別の虎を見つけてきただけのスネ夫なんですよ。

昔はこのジャイアンが、特定の個人或いは、特定の集団であったのが、今は、実体のない群れに置き換わっているんです。
だから、群れに馴染まない個に対して、「群れ」威を借り攻撃するんですよ。
その攻撃も直接的な攻撃だけではなく、関わり合いも持たないようにする「無視」もあれば、敢えて関わり合いを持たないようにする攻撃的な「無視」もあるわけです。
前者の無視も後者の無視も同じなんですよね。
クラスという建前上、皆が仲良くすることが前提になっている場所で、特定の個人と仲良くしない事を前提とする行動は、全て「イジメ」なんですよ。

ここを抑えず展開する議論なんて、何の意味も無いと思いますよ。

学校においては、この関わり合いにならないよう「無視」をするのが、私は一番質が悪いと思っています。
何故なら、イジメられている側には何の助けにもならず、むしろ、疎外感を与える一番の要因になってしまい、その一方で、当人は、全く罪の意識を持たないからです。

今回の件で言うならば、

標的にしたのは、フジテレビで、
イジメたのは、極普通の悪意すら持っていない人達で、
首謀者は、そういう大人を量産した学校教育なのでは?








■自粛警察にネットリンチ…正義ヅラした“屁理屈”をプロが斬る
(日刊SPA! - 05月31日 16:02)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=81&from=diary&id=6102301

 リアリティショー『テラスハウス』の出演者・木村花さんがSNSでの誹謗中傷を受けて亡くなったとされる一件で、今、「言葉の暴力」が問題視されている。コロナショックにおいても感染者や医療関係者への誹謗中傷、あるいは飲食店やライブハウスに警告の張り紙をする「自粛警察」などが問題となった。

 現代社会に蔓延するのはウイルスだけではない。この「言葉の暴力」から身を守るためには、どうすればいいのか?

『屁理屈に負けない! 悪意ある言葉から身を守る方法』を上梓した慶應丸の内シティキャンパスのシニアコンサルタント・桑畑幸博氏は、「他人を攻撃する悪意の言葉には、屁理屈や詭弁といった卑劣なテクニックが使われている」と語る。

 ロジカルシンキングのプロでありSNSウォッチャーでもある桑畑氏が、その卑劣な手法の見抜き方をレクチャーする。(以下、桑畑氏解説)

◆「ネットリンチ」と「自粛警察」の共通点

 SNSでの誹謗中傷、ヘイトスピーチ、デマの拡散に限らず、職場でのパワハラ、セクハラ、家庭でのモラハラなど、現代社会には「言葉の暴力」が溢れ返っています。

 他人を攻撃することで、自分の思うように抑圧し、コントロールしようとする――その悪意の言葉の多くには、乱暴な主張を押し通すために「屁理屈」や「詭弁」というテクニックが使われています。

 屁理屈の「屁」には、「屁とも思わない」という表現のように「値打ちのないもの、つまらないもの」という意味があります。つまり、誹謗中傷やヘイトスピーチ、ハラスメントなどは、本来は何の値打ちもない、つまらない主張であるわけです。

 しかし、それを見抜くことができなければ、丸め込まれたり、デマに踊らされたり、時には傷つき自分を否定してしまう。これは紛れもない悲劇です。

 では、屁理屈の何が卑劣であるか? 具体例を見ていきます。

◆「みんなが…」という言い方で押し通そうとする卑怯

 先日、リアリティショーに出演していた木村花さんが命を絶つという痛ましい出来事がありました。SNSで彼女を攻撃していた人々が口にしていたのが、「あなたがいなくなればみんながハッピーになる」、「番組のために消えてほしい」といった言葉です。

 この「みんな」、「番組のため」という言葉に、私たちは気をつけなくてはなりません。あたかも「みんな」や「番組」といった大きな主語の代弁者であるかのように語っていますが、その多くは、実は単なる個人的な偏見や感情に過ぎないからです。

 単なる偏見や感情に基づく乱暴なロジックを「みんな」という数の力で押し通そうとする。こうした屁理屈を、論理学では「多数論証」と呼びます。

「みんなそう言っている」と言われると反論しにくい空気が生まれますが、みんなそう言っているから正しいとは限らない、数の力が正しいとは限らないのは、ナチスドイツなどの歴史を振り返れば明らかです。

 大切なのは、主張の中身であるはずです。しかし、暴論や感情論を他人に押し付けたい時に、「みんな」という大きな主語を使って、その主張があたかも正しいかのように粉飾する。これは、とても卑怯なやり方です。

 同様に、自粛警察の人々は「みんな頑張っているのに、自粛しないとは何事だ!」と主張し、きちんとルールに則って営業している店に張り紙をしたりします。これも単に個人的な新型コロナウイルスへの不安や“気に食わない”という感情を、「みんな」という言葉であたかも正義であるかのように粉飾し、他者を攻撃しているわけです。

 コロナショックのような恐慌時は、特にこの多数論証が蔓延するので気をつけなくてはなりません。

「みんな」という言葉で他人を攻撃する主張に出会った時、それが本当に一般論なのか単なる個人的な偏見なのか、まずは見極める必要があります。「みんな」とは誰を指すのかを明らかにし、その上で、本人の主張の中身に着目する。

 もし、「みんな」が実は個人の偏見やある特定の集団である場合は、「値打ちのない、つまらない主張=屁理屈」として黙殺すべきですし、仮にみんなが一般論であっても、自分なりの意見やロジックがない空疎な主張であれば、それもわざわざ取り合う価値はありません。

◆「○○のため」を大義名分にする、「同情論証」という屁理屈

 一方、「番組のため」というような大義名分を前置きした上で、誹謗中傷など乱暴な主張を押し付けるテクニックを「同情論証」と呼びます。自粛警察の場合は、「日本のため」、「社会のため」という大義名分に置き換わりますが、同じ構造です。

 同情論証においては、「子供たちのため」「差別をなくすため」といった言葉がよく使用されます。誰もが感情的に否定できず、同情、共感するであろう大義名分を掲げることで反論できない空気を作り、その後に暴論や偏見に過ぎない主張を展開する。

 アメリカの国民的アニメ『ザ・シンプソンズ』に登場するヘレン・ラブジョイというキャラクターがこの屁理屈を多用するため、転じて「ラブジョイの法則」とも呼ばれています。

 勘違いして頂きたくないのが、私は「子供たちのため」「差別をなくすため」という理念自体を否定しているのではありません。むしろ、非常に尊いものだと思っています。しかし、だからこそ同情論証は危険なのです。理念が尊いからこそ、暴論であってもまかり通ってしまう危険性があるのです。

 さらに同情論証の厄介な点があります。それは、正義感や思い込みから、この屁理屈を無意識に使ってしまう人が少なくないことです。例えば、自粛警察の人々は、自分たちの行動が本当に社会のためと思い込んでいます。

 しかし、そこには重大な情報や認識の欠落があるのも事実です。

 コロナショックにおける影響には個人差があり、自粛していても生活が成り立つ人と経済的な死に直結する人では、そもそもの立場や前提条件が異なります。本当は感染リスクも経済リスクも同等に語るべきなのに、感染リスクばかりを煽る情報に触れているうちに、「何かなんでも自粛するのが正義」と思い込むようになってしまう。

 偏った情報に触れるうちに、偏った正義感から同情論証で一方的な主張を押し付けるようになる。これは、私たち誰もが気をつけるべきリスクです。

◆アフターコロナでは「悪意ある言葉」とも距離を取る

 このように厄介な同情論証。そこから身を守るには、まず「○○のために」という言葉を省いて、相手の主張が何であるかを確認することです。

 例えば「子供たちのために」という理念については誰も否定しませんから、その部分は早々に同意すればいい。同様に、過激な自粛警察の「社会のために徹底した自粛を」という主張に対しては、「社会のために」という部分には「私もそう思います」と共感してしまう。その上で、「社会のためを考えれば、感染リスクだけでなく、経済リスクも考慮すべきです」と新たな論点を提示すればいいのです。※これはあくまで議論の場での対応であり、SNSなどで同情論証を駆使した主張に出会った場合、「つまらない屁理屈」としてまともに取り合う必要はありません。

 このように一方的で乱暴な主張を、姑息なテクニックによって無理矢理押し付けようとする「言葉の暴力」。

 今回は「多数論証」と「同情論証」の2つを紹介しましたが、ほかにも「わら人形論法」「連座の誤謬」「前件否定の虚偽」など数多くのテクニックがあります。こうした屁理屈はSNSだけでなく、国会答弁やワイドショーのコメントなどにも散見され、中には議論のプロでさえ気づかずに丸め込まれてしまうほど巧妙なものもあります。

 ですから、言葉の暴力から身を守るためには、まずそうしたテクニックを知り、見抜く力を養うこと。そして、ソーシャルディスタンス同様に“屁のような理屈=何の値打ちもないつまらない主張”とは冷静に距離を取っていくことが大切になっていくでしょう。

<取材・構成/日刊SPA!編集部>

【桑畑幸博氏】
社会人ビジネススクールである「慶應丸の内シティキャンパス」シニアコンサルタント。’01年の立ち上げから参画し、マーケティング・思考力・コミュニケーションスキルの講義で人気を博す。これまで資生堂、カゴメ、ブリヂストンなど100社以上の一流企業、および多数の自治体で研修を手掛ける。ファシリテーション、ロジカル・シンキングのプロとして教育プログラムの作成・講義をはじめ、外部セミナーやシンポジウムなどでも活躍。新著に『屁理屈に負けない!――悪意ある言葉から身を守る方法』(扶桑社刊)
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