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2019年02月17日16:08

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上手いww

何ともぴったりな言葉かと。

これって単に人間関係だけの話ではなく、生き方そのものが「くれない族」となっているのではないのでしょうか。
誰かが何かをしてくれるのが当たり前の生き方から、自ら何かをしなければならない社会に放り出されるわけです。
本来であれば、小中高或いは大で、能動的な社会との接し方を学び、その過程で、怒られ、傷つき、悔しい思いもすれば、楽しい思いをして成長するわけですが、それらの大半を経験することなく、社会に出てきて現実と直面するわけです。

教えてくれない。
評価してくれない。
昇給してくれない。

或いは、

保育園に入れてくれない。
家事を手伝ってくれない。
子供の面倒を見てくれない。

とか。
不満の対象は、誰かが何かをしてくれるのは、社会に出てくるまでですよ。
親であり教師が何かをしてくれるのが当たり前の育ち方をしてしまった結果、自分でできる事、自分がやらなければならない対処まで、外部に求めているのではないのでしょうか。

仕事は、自分で覚えるものであって、わからない事や、疑問は、自分から聞きに行くべきものです。
その結果が、評価に結び付き、昇給に繋がっていくものですよ。
頑張って当たり前で、それは普通の事なので評価に値しないんですよね。
また頑張っている方向が、会社が求めてりう事と異なっているのでは、頑張っているとすら認めてもらえません。
頑張った結果、会社への貢献に繋がりその貢献度合いが評価対象となるのですが、それすらわからない人がいるのが不思議でなりません。

自らの生活環境は、自ら整えるのが当たり前なんですよ。
所が、なぜか自らの生活を改善することなく行政に求めてしまう人達がいます。

とても不思議な世の中になってしまったものです。

人間関係はその先の話なのではないのでしょうかね。

生きる。

これは能動的な行動であって、生きることに受動的になるのは家畜と同じで、単に生かされているだけの存在にしかすぎませんよ。
間違わなければよい、失敗しなければよいという誤った価値観を後生大事に抱えて、誰かから構ってもらう生き方って幸せなのでしょうか。

能動的に動くことによって、軋轢が生まれることがあります。
ただ、それは本来小中高で経験し、軋轢を生まない或いは、軋轢が生じた際の対処方法を子供なりに学ぶべきところを学びそこなった結果が

くれない族

と称される生き方になっているのではないのでしょうかね。
これは、別に昨今の若い方々だけの話ではなく、本文中にもありますが、中高年にも同じことが言えるのかと。

間違わない、失敗しない人生。

間違っているかもしれないけど、やってみる。
失敗するかもしれないけど、やってみる。

その結果が否であれば、改めれば良いだけなんですよ。
取り返しのつかない事もありますが、不平不満を溜めこんで、陰々鬱々とした人生を過ごすよりも、有意義な生き方だと思いますよ。

余談ですが、昨今の多様性を求める生き方という言葉に懐疑的です。

確かに選択肢の幅は広がりましたが、その選択の方向性が狭まっていませんかね?

ゴルフ、テニス、釣り、スキー、サーフィン、車等々、1人で一通りやって、自分に合ったものを残している人達が、40代半ば以降の人達の生き方です。
むろん、何もしなかった人達もいますが、複数の事をやっている人達の方が多いのでは?
バブルが云々と言いますが、必ずしも皆が皆裕福だったわけでもなく、ただ、色んなものを我慢して、「やる」という方向に舵を切った生き方をしてきたわけです。
選択肢が狭い分、集約されてしまい画一的な生き方と称される事が多々ありますが、一通り経験し、自分に合ったものを残している分、多様化の人生を生きていると言えるのではないのでしょうか。
的を絞って、これしかないと、確かに絞った先は昭和世代にはなかった選択肢なのかも知れませんが、逆に絞った先が集約されすぎてしまい、むしろ画一された人生になってしまっているのは、今の人達の方の気がします。

仕事の取組み一つとっても、社畜と称される生き方を選んだ人もいれば、5時から男と称されるような生き方をしている人達もいました。適度に遊んで、仕事をする人達もいて、十分多様化していたわけですが、今は?という話です。

時間が来れば仕事は終わり。
時間を過ぎて仕事を頑張ると過労死。

この中間層が狭くなっているのでは?
で、多様化の人生と言われても、納得できませんよね。

専業主婦が8割以上の時代から、3割を切る昨今ですが、単に専業主婦を選ばないだけで、選択の幅が広がった多様化の生き方ではないですよね。
比率が変わっただけの話なんですから。
ただ、この現実をもって、女性の多様化した生き方と言ってしまうマスコミに罪があるのかと。

専業主婦、兼業主夫、働く女性

昔からある選択肢にすぎません。
自ら望んで、働く事を選択したという方もいらっしゃるでしょう。
ですが、働くにあたっての諸問題について棚上げしたままでは選択したとは言い難いのでは?それは単に結婚を選択しなかったがゆえに必然として働いているに過ぎないのではないのでしょうか。

だから、「〇〇してくれない」という不満が出てくるのかと。
男性もそうですよね。
消去法で残った生き方は、選択とは到底言い難いんですよね。
したい事を目指し、断念するのを挫折と言われがちですが、単に現実を直視しただけで、挫折でもなんでもないんですよ。
仮に目指している場所の椅子の数が限定されている場合、自分よりも能力が秀でた人間がそこに座って当然なんですよ。
自分がそこに座るために目いっぱい努力した結果、座れないのであれば、仕方がない事なんですよね。

そのどこが挫折なのでしょうか。

努力不足を悔い、チャレンジする事が可能であればチャレンジすれば良いだけの話で、間に合わないのであれば、それは自分の責任ですよ。
これ以上努力の仕様が無いと思うのであれば、それは単純に能力の差なわけですから、別の道を模索しれば良いだけなんですよ。

所がこの「挫折」という言葉も実に安易に使うんですよね。
挫折できるほど努力をしたのか?という話で、挫折できるほどの能力があったのか?という話でもあるわけです。
極々普通の人は、そうそう挫折何てできない無いんですよ。
無理を承知でチャレンジしたのであれば、それは挫折ではありませんよね。
ただ困ったことに、甘やかされて育ってしまい、自己評価が高すぎて、自分がチャレンジしている事にすら気が付かない人が増え、容易に挫折が出来てしまう環境になってしまっているのでは?

人の生き方を羨み、同じ生き方をしようとした挙句、その域に達する事が出きず、〇〇してくれない、〇〇してもらえないと嘆いていいるだけなのではないのでしょうか。
自分を知り、ちょっと上を目指して生活向上の努力を重ねている人ならば、くれない族にはならないのかと。






■かまってくれない、認めてくれない…不満の対処法
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=77&from=diary&id=5501285

相手や環境への不満ばかりが募る「くれない族」とは
気づかないうちに「○○してくれない」という言葉が、口ぐせのようになっていませんか?

80年代、「くれない族」という言葉が流行語になりました。これは『くれない族の反乱』というテレビドラマから生まれた言葉です。「夫はいつも○○してくれない」と家の中でため息ばかりついていた専業主婦が、そうした自分の殻を脱ぎ捨て、仕事を始め、やがては道ならぬ恋に目覚めていく……といった主婦向けのドラマでした。

このドラマのように、「くれない族」は夫の帰りを待つ専業主婦によく見られた現象ですが、今では世代を問わずどこにでも見られます。たとえば、仕事で忙しい彼氏に「どこにも連れて行ってくれない」と嘆く彼女。仕事がうまくいかないと「誰も私のことを評価してくれない」とすねてしまう社員……。

そして、「くれない族」は高齢者世代にも増えているようです。子どもから電話がかかってこないことに、「私のことなんて誰もかまってくれない」と嘆く老母。身近に友だちがいないことに、「誰も誘ってくれない」と嘆く老父。年齢を重ねることで思うようにいかないこと、失うことも増えていきますが、こうして愚痴を繰り返していると、ますます人が遠のいてしまいます。

「〜してくれない」という不満が、怒り・恨みに発展することも……
多くの「くれない族」は、自分の期待に家族やパートナー、親友などの「親密な相手」が応えてくれないことに、不満を持ちます。親密な相手だからこそ、「○○してほしい」という期待をかけ、かなわないと「○○してくれない」という不満が生じてしまうのです。この不満は、放っておくと怒り、恨みにまで発展してしまうやっかいなものです。

いくら「○○してくれない」と思っても、相手には相手の思惑や都合があり、いつも自分の期待と一致するとは限りません。たとえば、「どこにも連れて行ってくれない」彼を持つと、彼女はがっかりしてしまいますが、彼には彼の思惑や都合があるわけです。

それを「誘ってくれないなんて!」となじってみても、彼はそんな彼女を重く感じるだけ。だからといって、同じ言葉を1人でつぶやいてみたところで、自分の心が救われることもなく、暗く卑屈な気持ちになっていくだけです。

では、どうしたらよいのでしょうか

「くれない族」の心理とは……親しい相手に頼りすぎる気持ち
そもそも、「○○してくれない」と不満を抱いてしまうのは、親しい相手に頼りすぎてしまうくせ、つまり依存心が影響しているのかもしれません。相手が何かをしてくれるのを待つ前に、自分から企画して、相手に提案しているでしょうか?

たとえば、デートの場合、彼氏からの提案や誘いを「待つ」だけではなく、自分自身も「私は何をやりたいのか」を考え、提案するのが自立したお付き合いです。

「今開催されてる絵画展を見に行こうと思うんだけど、一緒に行かない?」「いい季節だし、山登りに行きたいと思うんだけど、週末にどう?」――こんな風に自分自身も計画を提案すれば、彼氏も付き合いを楽に感じるはず。そして、彼氏の都合がつかなかったら、「じゃあ、1人で行くわ」「他の人を誘うわ」と発想を転換する。――こんな風に、彼氏との関係だけに縛られず、柔軟で広い選択肢を持っていたいものです。

なかには、「彼がやりたいことについていきたい」と言う人もいるでしょう。しかし、夫唱婦随が当たり前だった時代なら分かりますが、現代の男性は、いつでも「あなた任せ」にされると負担に感じてしまうものです。逆に「オレの言う通りにしろ」というタイプの男性に従っていると、ますます主体性が育たなくなってしまいますので、注意したいものです。

これは、男女の交際だけでなく、仕事や友人関係など、あらゆる人間関係でも同様です。

自己への不満が「くれない」のつぶやきに?
また、親密な相手に「○○してくれない」と不満をぶつけるのは、実は自己が充実していないフラストレーションが、あるからかもしれません。

たとえば、自分のやりたいことが分からない、仕事がうまくいかない、自分の実力に限界を感じている――このように、自分自身への欲求不満を持っていると、苛立ちや憂うつ感が湧いてくるものですが、それを無意識のうちに、「夫が○○してくれないから」「家族が○○してくれないから」と、身近にいる親密な相手のせいにしてしまうことがあります。

他人のせいにしておけば、自分自身が持つ問題に直面して、傷つくのを防ぐことができるからです。これを心理学では、「防衛機制」と呼びます。

私は、自己の充実は「時間の充実」に比例すると考えます。つまり、自分の時間の使い方が充実したものであれば、自分自身にも満足しやすくなるのです。私は、この「時間の充実」を具体的に実現する方法として、「アウトプット」「インプット」「パスタイム」の「O・I・P」のバランスづくりをよく提案しています。

「アウトプット」とは、仕事や家事、育児、ボランティアのように、自分の力を自分以外のものに向けて発揮すること。「インプット」とは、勉強や情報収集、運動のように、知識や体力を積み重ねて、自分づくりをすること。「パスタイム」とは、娯楽や骨休めの時間を持つことで、頑張っている自分をいたわり、癒すことです。

たとえば、「外では仕事ばかり、休日は家でダラダラ寝ているだけで、無為に毎日が過ぎていく」というグチは、アウトプットとパスタイムが多く、インプットが不足している場合によく出てきます。こんなときには、自分の人生を嘆いたり、身近な人に不満をぶつけたりしたりするより、「O・I・P」のバランスを冷静に考えて、インプット(勉強、体力作りなど)の時間をつくっていく方が建設的です。

一例をあげると、「毎日スポーツクラブと犬の散歩ばかりで飽きちゃう」といった言葉は、生活がインプットとパスタイムに偏り、アウトプットが足りていない女性からよく聞かれます。そして、こうした言葉が口をつくと、他人に対する「くれない」のつぶやきも増えてしまいます。

こうした自分に気づき始めたら、生活の中にアウトプットの要素(仕事やボランティア、ブログ執筆など)を取り入れてみてはどうでしょう? 身近な人への不満を募らせることもなく、気持ちが家庭から外に向かい、自分自身が充実してくると思います。

このように、「くれない族」の不満の背景には、親しい相手に頼りすぎる気持ちと、自己への不満(=時間の充実不足)が関係している可能性があります。そうした自分に目を向けず、周りにいる大切な人たちに「○○してくれない」という思いを向けていると、いつかは信頼関係が崩れてしまうかもしれません。そうした事態を防ぐためにも、まずは自分自身の改革に意識を向けていきませんか?
(文:大美賀 直子(精神保健福祉士・産業カウンセラー))
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