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2017年07月23日23:30

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「地上の商人」警告のニュースレター「角笛」82号より

「地上の商人」by エレミヤ
 
本日は、「地上の商人」という題でメッセ ージしたいと思います。
 
黙示録の中には「地上の商人」ということ ばが使われています。以下の箇所です。
 
黙示録18:3 それは、すべての国々の民が、彼 女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒 を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行 ない、地上の商人たちは、彼女の極度の好色 によって富を得たからである。」
 
 
ここでは、淫婦バビロンとともに「地上の 商人」に関して描かれています。このことば の意味を考えてみたいと思うのです。
 
<黙示録は「地上の」人々について 語る>
 
黙示録には独特の用語やキーワードが使わ れています。その中で、今回は地ということ ばを見たいのです。この書には頻繁に「地」
に関することばが多く使われています。
 
たとえば、以下のことばです。
 
地に住む人々: 黙示録6:10 彼らは大 声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。 いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私 たちの血の復讐をなさらないのですか。」
 
地の王:黙示録17:2 地の王たちは、こ の女と不品行を行ない、地に住む人々も、こ の女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」
 
この様に黙示録には地上の商人、地に住む 人々、地の王というように、地に関すること ばが何度も語られています。このことの意味 合いを考えてみたいと思うのです。
 
<主はたとえの理解を語る>
 
この地上の商人ということばを理解する前 に私たちがまず知らなければならないことは、 黙示録はたとえや謎が多用された書であると いうことです。聖書は主が語られたことばは みな、たとえであることを述べます。以下の 通りです。
 
 
  
 マルコ 4:33 イエスは、このように多くのた とえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを 話された。
 
 4:34 たとえによらないで話されることはな かった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、 すべてのことを解き明かされた。
 
聖書はこのように主が「たとえによらない で話されることはなかった」ことを述べます。 ですので、主のことば、そしてキリストを証 しする書である聖書は、たとえに満ちている のです。それで、私たちはたとえを理解する ことに心を注ぎ、主のことばを理解していき たいと願うのです。
 
 
<地上の商人のたとえの意味合い>
 
地上の商人ということばのたとえの意味合 いを考えてみましょう。この地上ということ ばを理解するには以下のことばを考えること が効果的だと思えます。
 
ヘブル 11:13 これらの人々はみな、信仰の 人々として死にました。約束のものを手に入 れることはありませんでしたが、はるかにそ れを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留 者であることを告白していたのです。
 
ここでは、旧約の神の民の信仰の先祖であ るアブラハム、イサク、ヤコブに関して 地上では旅人、寄留者であることを告白して いたことを語ります。
 
アブラハムは旧約のイスラエルの先祖であ り、信仰の模範です。そして聖書によれば、 私たち新約のクリスチャンも新約のイスラエ ルなのですから、私たちクリスチャンもアブ ラハムの信仰にならう必要があるのです。す なわち、私たちも地上では旅人であり、寄留 者の歩みをするべきなのです。
 
地上において旅人であり、寄留者である、ということの意味合いはどのようなものなので しょうか?それは、私の理解では私たちのこ の地への態度を示すものと思えます。態度? すなわち、こういうことです。
 
私たちクリスチャンは誰も彼も好むと好ま ざるとこの地に生きるものであり、この世の 中で生活し、世の学校へ通い、世の会社に通 って生活をなりたたせるものなのです。生き ていく上でこの地と接触しないわけにはいか ず、この世と無関係では生活できないものな のです。しかし、そうではあっても、この地 に対して、私たちクリスチャンがどのような 態度で接するか、この世とどのような態度で 接するか、それは大事なのです。
 
地に暮らすにあたってあるべき姿、模範的 な歩みは、以下の様なアブラハムの歩みなの です。
 
ヘブル11:9 信仰によって、彼は約束された地 に他国人のようにして住み、同じ約束をとも に相続するイサクやヤコブとともに天幕生活 をしました。
 
アブラハム、そしてイサクもヤコブもこの 地において、天幕生活をしていました。すな わち彼等はこの地に住んではいても、ここに は彼らの定住の宿や住まいはないことを告白 し、また、天幕にすむことにより、自分たち はこの地の永住者ではない、ただ仮に住んで いる者に過ぎないことを告白していたのです。 これが、旅人、寄留者であることの意味合い なのです。
 
さて、このように歩むこと、地上の旅人、 寄留者として歩むことに何か大事な意味があ るのでしょうか? 何かどころではありませ ん。その歩みは実は、私たちの永遠の行き先 に大いに関係するのです。地上で旅人、寄留 者の歩みをすることこそ、天の都に入る条件 なのです。以下の様に書かれています。
 
 
  
 
                         
ヘブル11:15 もし、出て来た故郷のことを思 っていたのであれば、帰る機会はあったでし ょう。
 
 11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれ た故郷、すなわち天の故郷にあこがれていた のです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれる ことを恥となさいませんでした。事実、神は 彼らのために都を用意しておられました。
 
地上で旅人、寄留者の歩みをしたアブラハ ム、イサク、ヤコブたちに対して神は天の都 を用意しておられたことがここで語られてい ます。
 
しかし、それでは逆の歩みをする人々に対 してはどうなのでしょうか?地上で旅人、寄 留者の歩みなどせず、この世にどっぷりとつ かった歩みをするクリスチャンに対してはど うなのでしょう?どうも天の都が危なそうな 予感がします。いやそうなるように読めます。
 
 
そして、黙示録のいう地上の商人、地に住 む人々、地の王などは、このアブラハムとは 対照的な人々をさすことばなのです。すなわ ち、彼らはこの地、この世の定住者であり、 この地、この世にどっぷりとつかり、この世 の価値観、思想で歩む人々なのです。
 
そして黙示録を読むならこの地につく人々 に対して、よいことばは書かれていません。 逆に彼らの裁きや滅びを暗示するような記述 が多く書かれています。以下の通りです。
 
 黙示録6:10彼らは大声で叫んで言った。 「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行 なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をな さらないのですか。」
 
 
<彼らの思いは地上のことだけ>
 
ピリピ書はこのような地に住む人々に関して
彼らの思いは地上のことだけであることを述 べます。以下の通りです。
 
ピリピ3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神 は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身 の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけ です。
 
この箇所を見てみましょう。ピリピ3:1 8〜20の箇所を読みます。
 
ピリピ 3:18 というのは、私はしばしばあな たがたに言って来たし、今も涙をもって言う のですが、多くの人々がキリストの十字架の 敵として歩んでいるからです。
 
ここでパウロは、多くの人が「キリストの 十字架の敵として歩」んでいることを語りま す。キリストの十字架の敵として歩むとはど ういうことなのでしょうか?こういう意味だ と理解できます。主が十字架にかかられたそ の理由は、私たちの罪ある肉が滅んで、私た ちが肉や罪から解放されるためなのです。
 
そして十字架の敵として歩んでいる人々と は、その滅ぼされるべき自分の罪深い肉を大 事にし、それを十字架につけることを望まな い、そのような人々です。
 
ピリピ3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの 神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自 身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだ けです。
ここで、「彼らの最後は滅びです。」と書 かれています。ですから、自分の肉を十字架 につけることをせず、キリストの十字架の敵 として歩む地的なクリスチャンの行き着く先 は天の御国でも、永遠の命でもなく、逆に滅 びであり、地獄であることをパウロは語るの です。恐ろしいことです。「クリスチャンは 決して地獄へ行かない」などとの愚かな曲が った教理にしがみつかず、このパウロの警告 の声に耳を傾けるべきです。
 
「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光 は彼ら自身の恥なのです。」
 
このような自分の肉を大事にする人々にと り大事なこと、また彼らの神は、自分の欲望 なのです。これらの人々は、神にではなく、 自分の肉的な欲望を満たすことや、名声、栄 華を得ることに仕えているのです。
 
「彼らの思いは地上のことだけです。」
 
そしてこのような肉的な人々の思いは地上 のことだけであることがここで書かれていま す。彼らが気にしていることはこの世での評 判、地位、経済であり、心の中はそんなこと ばかりでいっぱいなのです。そして、このよ うな人々、思いが地上のことだけである人々 こそ、聖書がいう「地に住む人々」なのです。
 
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主として おいでになるのを、私たちは待ち望んでいま す。
 
ここでは、しかし、私たちの国籍は天にあ ることが述べられています。すなわち、ここ でも地に住む人々と対照的に天の国籍が語ら れているのです。言い換えると、私たちが、 地に住む人々として歩むなら、天の国籍を得 ることが難しいことがここで暗示されている のです。
 
<地とは水のないところ>
もう少し、「地」について聖書が語ってい ることを見て行きましょう。創世記は、地に ついて以下の様に語ります。
 
創世記 1:10 神は、かわいた所を地と名づけ、 水の集まった所を海と名づけられた。神は見 て、それをよしとされた。
 
この箇所に書かれているように、聖書的に はかわいたところ、すなわち水のないところ をさして「地」と呼ばれているのです。そし て、水は聖書のたとえとして聖霊のたとえで す。以下の様に書かれているからです。
 
ヨハネ7:38わたしを信じる者は、聖書が 言っているとおりに、その人の心の奥底から、 生ける水の川が流れ出るようになる。」
 
ですので、地とはすなわち、聖霊のない場 所をさすたとえなのです。また、黙示録の言 う地に住む人々、地の王、地上の商人などは みな、聖霊を持たないクリスチャンをさすた とえなのです。
 
<バビロンと地上の商人>
 
冒頭のテキストに戻りますが、黙示録は地 上の商人がバビロンと関係があることを語り ます。
 
黙示録18:3 それは、すべての国々の民が、彼 女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒 を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行 ない、地上の商人たちは、彼女の極度の好色 によって富を得たからである。」
 
このことを考えて見ましょう。バビロンは 以前見たようにアメリカのキリスト教会をさ すたとえであると理解できます。そして、地 上の商人のたとえの意味合いはそれはこの世 についた牧師、教師をさすたとえです。
 
  
彼らは御霊を持っていません。商人は売り買 いを行うものですが、それは買い取ること、 すなわちあがないと関係することばです。で すから、商人とは、あがないに関係する牧師、 神父、教師などをさすたとえなのです。そし てこのような地的、この世的、御霊を持たな い牧師たちが大いにバビロン、アメリカキリ スト教会の繁栄や発展に力を入れる、惹かれ ていく、そのことを上記みことばは語ってい るのです。
 
ですから、上記節を通して聖書が語ること、 それはバビロンすなわち、アメリカのキリス ト教会は地上の商人すなわち、この世につい た牧師や教師には大いに受けいられる、大歓 迎されるということがらなのです。
 
逆な言い方をいうなら、アメリカキリスト 教会のおかしなこの世的な教理に問題を感じ ず、聖霊とは思えないおかしなリバイバルの 霊に疑問をいだかない牧師や教師はすなわち、 そのまま神の前に人の前に地上の商人なので す。彼らがアメリカ、バビロンを見抜けない その理由は彼ら自身が地上の商人であり、こ の世についた人々だからなのです。そのよう なわけで私たちはバビロン、アメリカのキリ スト教会に関して、人間的な視点ではなく、 神の視点、聖書の視点で見るべきなのです。
 
アメリカのキリスト教会は人の目には理想 的な教会、指導的な教会に見えるかもしれま せん。しかし、神の目の前には、この教会は 地的な教会であり、裁きや罰の対象なのです。 そしてこの教会の教理を受入れ、その霊を受 入れる牧師、教師は人間的にどう評価されよ うと神の目の前には、憎むべき地上の商人、 すなわち、この世についた牧師、教師である に過ぎないのです。
 
バビロン、アメリカのキリスト教会が地の ものであり、この世的なものであること:こ のことは誇張でなく、事実です。アメリカの キリスト教会のその特徴、トレンドは明らか にこの世についたトレンドなのです。たとえ ば、アメリカでもてはやされているレフトビハインドや、艱難前携挙説はすなわち、神の ことばの真理より、自分たちが艱難に会いた くない、というこの世的なクリスチャンに迎 合するこの世的な、自分勝手な教えです。
 
さらにアメリカのキリスト教ミュージック はこの世の歌をカバーしたり、刺青を入れた 世的な歌手が歌っています。さらにアメリカ のキリスト教会では離婚も同性愛も刺青もど んどん受入れられています。まさにどんどん 地的なものが取り入れられ、この世的なもの が教会に入ってきているのです。このことは、 神の目の前にもまた聖書的な視点でも大きな 問題であり、大問題なのですが、しかし、地 上の商人、すなわち、この世についた牧師や 神父、教師は問題を見ません。彼らの目は曇 らされ、一体何が問題なのか理解できず、む しろこれらの冒涜を自ら推進していきます。 彼らは盲人です。
 
このように、確かにバビロン、アメリカの キリスト教会が地に住む人々のトレンドや、 考えにマッチしたものとなっていることがわ かるのです。しかし、それらのこの世的な歩 みを進めるバビロン、アメリカキリスト教会 はいずれ、一日で滅んでしまうことをも知り ましょう。以下の様に書かれています。
 
黙示録18:8 それゆえ一日のうちに、さまざまの災 害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼 女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である 主は力の強い方だからです。
 
主を恐れるべきです。
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