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2017年07月02日11:45

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「大地震について」警告のニュースレター「角笛」79号より

「大地震について」  by エレミヤ
 
本日は大地震について、という題でメッセ ージしたいと思います。黙示録は終末の日に かつてなかったような大きな地震が起きることを語ります。このことを見ていきたいと思 います。以下のテキストの箇所から見ていきます。
 
黙示録16:18 すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。
 
 16:19 また、あの大きな都は三つに裂かれ、 諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロ ンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒り のぶどう酒の杯を与えられた。
 
ここには、終末の日に「人間が地上に住ん で以来、かつてなかったほどのもので、それ ほどに大きな、強い地震」が起き、そしてそ れゆえ、都が分かれたり、町々が倒れることが描かれています。この記述を理解したいと 思うのです。今は確かに大きな地震が世界中に起きています。ですので、単純に大きな地震が起きることの記述との理解もあるのでし ょう。しかし、主は弟子たちに対してたとえを理解することを語りましたので、地震とい うことに関するたとえを理解したいと思うのです。
 
<地震は揺るがしや、迫害に関する たとえ>
 
さて、終末に関連して、地震が起きると聖 書は他の箇所でも語っています。このことを 見ていきましょう。
 
マタイ24:7 民族は民族に、国は国に敵対して 立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
 
 24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
 
 24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名 のために、あなたがたはすべての国の人々に 憎まれます。
  
 24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつま ずき、互いに裏切り、憎み合います。
 
 
このマタイ書にも終末の日に地震が起きる ことが語られています。そして、その地震の 記述とともに、正しいクリスチャンが「苦し い目に会う」こと、殺されることさらにキリ ストの名のゆえに、「すべての国の人々に憎 まれる」ことも描かれています。
 
さらにその日には多くのクリスチャンが 「大勢つまずき、互いに裏切り、憎み合う」 ことが描かれています。これらは、すなわち、 教会に対する迫害や揺るがし、その結果として、教会やクリスチャンの信仰が倒されてい くことを語るものです。ですので、聖書のい う地震とは実は教会やクリスチャンへの揺る がしや迫害、そのことをたとえで語っている ことが理解できるのです。地震が起きると町や家が倒壊するものです。家や町は教会や教 団のたとえであり、教会が揺るがしや迫害の 中で、信仰を倒され、崩壊することをたとえ で語っていることがわかるのです。
 
<何故地震、揺るがし、迫害が許されるのか?>
 
さて、終末の日に地震すなわち、迫害や揺るがしが教会に起きるらしいことはわかりま した。しかし、私たちの疑問は一体何故、神はそのような日、迫害や、揺るがしの日を教 会に対して許されるのか?という疑問です。 このことに関してヘブル書は以下の様に述べます。
 
ヘブル12:25 語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天 から語っておられる方に背を向ける私たちが、 処罰を免れることができないのは当然ではあ りませんか。
 
 12:26 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言 われます。「わたしは、もう一度、地だけで はなく、天も揺り動かす。」
 
 12:27 この「もう一度」ということばは、決 して揺り動かされることのないものが残るた めに、すべての造られた、揺り動かされるも のが取り除かれることを示しています。
 
12:28 こういうわけで、私たちは揺り動かさ れない御国を受けているのですから、感謝し ようではありませんか。こうして私たちは、 慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように 奉仕をすることができるのです。
 
この箇所を見ていきましょう。
 
25 語っておられる方を拒まないように注意し なさい。なぜなら、地上においても、警告を 与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることが できなかったとすれば、まして天から語って おられる方に背を向ける私たちが、処罰を免 れることができないのは当然ではありません か。
 
終末の日に地震が起き、迫害や揺るがしが 起き、多くのクリスチャンが振るわれ、揺り 動かされ、倒されることはありえそうです。 その場合、どこがポイントなのでしょうか? 私たちが倒されないためには、とどまるため には何が必要なのでしょうか?それは、ここ に書かれているように、語っておられる方す なわち、聖霊の声に今耳を傾けているかどう かが大事なのです。
 
今正しく聖霊の声を聞いていない人々はみ な、その日倒れてしまうでしょう。しかし、 今正しく聞いている人はそれらの揺るがしの 中でもとどまり続けるでしょう。
 

 12:26 あのときは、その声が地を揺り動かし ましたが、このたびは約束をもって、こう言 われます。「わたしは、もう一度、地だけで はなく、天も揺り動かす。」
 
ここでは、地が揺り動かされ、天も揺り動 かされることが描かれています。天地の意味 合いにもたとえが使われているように思えま す。天地は教会のたとえです。聖書はアブラ ハムの箇所で天地に関してこう語ります。
 
創世記22:17 わたしは確かにあなたを大いに 祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂 のように数多く増し加えよう。そしてあなた の子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
 
アブラハムは全イスラエルの先祖です。そ して、そのイスラエルに関して主はそれは、 「空の星、海辺の砂」の様であると語りまし た。ですので、すべてのイスラエル人また、 新約のイスラエルであるクリスチャンもまた 空の星、海の砂なのです。星は空、天にあり、 砂は地にあります。ですので、天地はクリス チャンが存在する場所として教会のたとえな のです。
 
天地の違いは何でしょう?地はこの世に属 する場所です。ですので、地の砂はこの世に ついたクリスチャンをさすと理解できます。 彼らは、その日、終末の日に揺り動かされ、 倒されていきます。
 
「天も揺り動かす。」
 
しかし、終わりの日には、地だけでなく、 天すなわち、天的な教会も揺るがされること が描かれています。正統的な信仰を持ち、熱 心に神に仕えているという教会も揺り動かさ れ、その真の実態があらわれてしまいます。 天が揺り動かされるとは普通に考えればおか しな表現なのです。普通はどんな大きな地震 でも天が揺り動かされることはないからです。 地震でいくら家やビルが揺れても天の飛行機 が揺るぐこともないし天を飛ぶ鳥が揺り動かされることもないのです。ですのでこれは、 確かにたとえの表現なのです。ですので、終 末の日には、全世界の教会全てが揺り動かさ れるような世界規模の地震、すなわち迫害や、 揺り動かしがある、と理解したほうがよいの です。例外はないでしょう。このことに関し て黙示録3章はこう語ります。
 
 黙示録3:10 あなたが、わたしの忍耐につい て言ったことばを守ったから、わたしも、地 上に住む者たちを試みるために、全世界に来 ようとしている試練の時には、あなたを守ろ う。
 
ここに書かれているように、その試練の日、 艱難時代は全世界に及び、全教会に及ぶので す。例外はありません。まして、艱難の前に 挙げられる教会などないのです。
 
12:27 この「もう一度」ということばは、決 して揺り動かされることのないものが残るた めに、すべての造られた、揺り動かされるも のが取り除かれることを示しています。
 
さて、ここで揺り動かし、地震、迫害が起 きるその理由が書いてあります。それは、そ の地震を通して「決して揺り動かされること のないものが残るため」なのです。
 
 
 
この箇所は人の視点ではなく、神の視点で 書かれていることを理解しましょう。私たち クリスチャンの視点、考えは、地震も迫害も 艱難時代も来てほしくない、というものです。 しかし、神の視点は尐し違います。神の視点 はこの地震、艱難を経てもなお、正しく堅く 残るものに目を注がれているのです。逆にそ のような地震で倒れたり、艱難の中で神やキ リストを裏切るクリスチャンはそれだけのも のであり、神はそのような人に目を注いでい るわけではないのです。
 
 12:28 こういうわけで、私たちは揺り動かさ れない御国を受けているのですから、感謝し ようではありませんか。こうして私たちは、 慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように 奉仕をすることができるのです。
 
ですから、御国すなわち、教会を我々が建 てようとするとき、その日、すなわち揺り動 かしの日、迫害の日を前提に備えるべきなの です。その日、私たちの建てた家、教会が崩 壊してしまうなら、何の意味もないからです。 私たちは、揺り動かされない御国、すなわち 教会を建てるべきなのです。
 
<宝物とは何か?>
 
さて、このヘブル書のことばは、以下のハガイ書2:6〜8の引用です。この箇所をも 見ていきましょう。
 
ハガイ 2:6 まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天 と地と、海と陸とを揺り動かす。
 
全ての教会が揺り動かされる地震の日、す なわち艱難時代が近づいています。
 
 2:7 わたしは、すべての国々を揺り動かす。 すべての国々の宝物がもたらされ、わたしは この宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられ る。
 
 
何故、神はあえて終末の日に地震を起こし、 艱難時代を到来させ、揺り動かしを許すので しょう?その理由がここに書かれています。 それは神の視点です。すなわち、神の前に 「すべての国々の宝物がもたらされ」るため なのです。宝とはこれらの迫害や艱難の中で も主の前にとどまり、神のことばを真実とし てとどまり続ける人々です。彼らこそ神の前 に宝なのです。ですので、言い方を変えるな ら、地震すなわち、艱難時代とはある意味、 神の計画の中で起きたことなのです。
 
2:8 銀はわたしのもの。金もわたしのもの。 ――万軍の主の御告げ。――
 
宝物とは、具体的には金や銀であることが ここでは書かれています。金や銀は、溶鉱炉 の火を通して精錬されます。同じように試練 の火を通して、なおかつとどまり、信仰を持 ち続ける人こそ、神の前に金であり、銀なの です。このことは主の初降臨の日を考えれば 理解できるでしょうか。主の初降臨の日、4 000人、5000人の群集が話を聞きに集 まりましたが、彼らは別に神の前に宝ではあ りません。逆に群集は、当初はキリストを信 じながらも後に態度を変えます。イエスはカ ルトであると聞き、また「イエスをキリスト だというと会堂から追い出される」と聞き、 彼らは態度を豹変させました。最後には群集 はイエスを捕らえ、十字架につけて殺すこと に加担したのです。彼らは地震に揺るがされ る人々であり、宝ではありません。
 
しかし、同じような状況でもイエスにとどまり続けた人々もいます。それは12弟子を 始めとした弟子です。彼らはキリストの最後 の日まで忠実にとどまり続けました。彼らこ そ神の前に宝物であり、試練の中でも金や銀 の信仰を保ち続けた人々なのです。終末の日 にはこのストーリーが再現するようになるこ とを知りましょう。終末の艱難の中でも最後 まで、主にとどまり続ける人これらの人こそ 神の前には宝なのです。
  
<神の目は宝に注がれている>
 
初降臨の日、神の目は明らかに宝となる 尐数の人々に注がれていました。それ以外の 結局は倒れ、揺るがされる人々には注がれて いませんでした。そして、そのこと、神が目 を宝となる人々に注がれるということは、再 臨のときも同じであることを知りましょう。
 
神は他でもその目を宝に注いでおられること を語っています。以下を見てください。
 
マタイ13:44 天の御国は、畑に隠された宝の ようなものです。人はその宝を見つけると、 それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物 を全部売り払ってその畑を買います。
 
この箇所を考えてみましょう。ここで登場 する人はキリストのことです。キリストは畑 の宝を見つけると「大喜びで帰り、持ち物を 全部売り払ってその畑を買います。」と書か れているように、ご自分の命を犠牲にして畑 すなわち、全てのクリスチャンのあがない、 すなわち買取りをします。しかし、この箇所 で注目すべきことは確かに畑を買うためにこ の人は買取をしたのですが、しかし畑全部が 宝ではない、ということです。前述のユダヤ 人の様にすべての人、すべてのクリスチャン がキリストの前に宝ではないのです。彼らは 畑として、確かにキリストにより、買い取ら れ、あがないを受けているのです。ですから、 天国へ入る資格は持っているのです。しかし、 キリストの目は宝に注がれており、迫害を経 てもなおかつとどまる人々に注がれています。 そして、この箇所ではあがない、キリストの 犠牲の本当の目的はこの尐しの宝、人数的に は尐ない宝を得るために、行われたことが書 かれているのです。神の本音、目的は宝にあ り、キリストの目は、宝に注がれているので す。そのことがここではさりげなく書かれて いるのです。
 
<終末の日、クリスチャンに対し て選びがあり、選別がある>
 
そのようなわけで、私たちは聖書が終末の 日に関して明らかに語っている事実、基本的 な事実を理解しましょう。それは、終末の日 に明らかにクリスチャンの間に選別があり、 よりわけがあり、揺り動かしがあり、差別が ある、という事実です。聖書の多くのみこと ばがこのことを語ります。
 
今回のこの箇所は地震、揺るがしを通して のクリスチャンの選別を語ります。それ以外 にも、以下の様に聖書はその日のクリスチャ ンの選別を語ります。
 
1. 良い麦、悪い麦:マタイ13章
2. 良い魚、悪い魚:マタイ13章
3. 賢い娘、愚かな娘:マタイ25章
 
これらの箇所に登場する麦、魚、娘はみな、 クリスチャンをさすたとえです。麦はパンす なわち、キリストのみことばを通して成長す るものとしてクリスチャンのたとえです。ま た、魚は聖霊の水の中に生きるものとしてク リスチャンのたとえです。また、娘はキリス トに嫁ぐものとしてのクリスチャンのたとえ なのです。
 
そして、そのクリスチャンの中にその主の 再臨の日に選別があり、ある人は選ばれ、あ る人は選ばれず、逆にその罪や、不従順のた めにキリストの怒りをかうことが描かれてい るのです。これらを踏まえて正しく終末の備 えをしていきましょう。
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