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2017年06月11日16:11

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「馬のくつわに関する奥義」 警告のニュースレター「角笛」76号より

「馬のくつわに関する奥義」  by エレミヤ
 
本日は、「馬のくつわに関する奥義」という題でメッセージをしたい、と思います。以下の黙示録の箇所に記されている「馬のくつわ」の意味合いを考えてみたい、と思うのです。
 
黙示録14:18 すると、火を支配する権威を持 ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言 った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
 
 14:19 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
 
 14:20 その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに 届くほどになり、千六百スタディオンに広が った。
 
ここでは、神の激しい怒りの大きな酒ぶねから流れ出た血が「馬のくつわ」に達したことが書かれています。しかし、馬のくつわ、 とはあまり聞かない表現です。洪水の水が流れ出て堤防を越えた、などの表現なら普通の表現ですが、馬のくつわとはあまり聞かない独特の表現です。何かこのことばに隠れた意味合い、御国の奥義があるかもしれません。 それを考えてみたい、と思うのです。主は御国の奥義に関してこういわれました。
 
マタイ13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
 
 13:11 イエスは答えて言われた。「あなたが たには、天の御国の奥義を知ることが許され ているが、彼らには許されていません。
 
主はここで、天の御国の奥義といわれる特別な奥義が存在すること、そして、その奥義は、たとえにより、人々から隠されていることを語っておられるのです。ですから私たちにあっては、是非馬のくつわに関するたとえ を理解し、そこに隠されている奥義があるなら、それを理解したいと思うのです。
 
 <馬のくつわは教師をさすたとえ>
 
馬のくつわ、ということばは、実はヤコブ 書にも使われています。以下の通りです。
 
ヤコブ3:1 私の兄弟たち。多くの者が教師に なってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。
 
 3:2 私たちはみな、多くの点で失敗をするも のです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。
 
 3:3 馬を御するために、くつわをその口にか けると、馬のからだ全体を引き回すことができます。
 
ここでは、教師とその裁きと関連して「馬のくつわ」ということばが使われています。 ですので、馬のくつわとは教師をさす表現、 たとえであることが類推できるのです。
 
 
馬のからだ全体は、教会全体のたとえ、また馬のくつわは、それを導く教師のたとえなのです。このヤコブ書の箇所を通してさらに教師に関して聖書の語っている警告を見ていきましょう。ヤコブ3章の箇所を順に見て行きましょう。
 
 
ヤコブ3:1 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。
 
ここでは、教師が格別きびしいさばきを受けるようになることが描かれています。ですので、このヤコブ書3章の主題は教師に関することであり、間違えた教師を通して起きる 災い、さらに教師自身が受ける裁きに関して語られている箇所なのです。
 
 
 3:2 私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。
 
ここでは、教師に関連してことばの上での失敗に関して書かれています。ことばとはギ リシャ語でlogosと書かれています。これは、 聖書のことばをさす原語でもあります。すなわち、ここでは神のことばである聖書に関す る誤りに関して書かれているのです。
 
すなわち、教師に関する誤りとはことば、 神のことばである聖書に関する誤りであるこ とがわかるのです。具体的には教師が神のことばを正しく理解せず、教会の会衆を誤りに導くという失敗に関して書かれているのです。たとえば、今の時代の教師たちは終末のみことばを正しく理解せず、終末の日に災いに会うのはユダヤ人だ、などと語ります。教会やクリスチャンは終末の日に災いにも裁きにも会わない、と語ります。この様な的外れな解釈はそのことばに関する誤りの一つです。
 
 3:3 馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことがで きます。
  
 ここでいう馬のくつわは教師のたとえです。馬のからだ全体は教会全体のたとえです。大きな馬が小さなくつわを通してコントロールされるように、教会も一人の教師により、影響を受け、コントロールされます。た とえば、ローマ法王が「地獄はない」などと偽りを語るとカソリック教会全体が真理から離れ、惑わされていくのです。
 
 3:4 また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。
 
ここでは、教師は船の舵にたとえられています。小さなか舵が大きな船の方向を変えることができるように一人の教師が大きな教会 の方向を定めます。
 
たとえば、牧師が惑わされてベニーヒンをすばらしい神の器である、などと崇拝すると教会全体も惑わされて、ベニーヒンの集会に出席し、彼から悪霊の按手を受けるようになったりするのです。
 
 3:5 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あの ように小さい火があのような大きい森を燃やします。
 
 3:6 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、 人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によっ て焼かれます。
 
ここでは、教師は舌にたとえられています。からだ全体は教会のたとえです。そし て、ここでは、さらに明確に教師を通して教会にもたらされる災いに関して語られています。
 
舌は、「からだ全体を汚し、人生の車輪を 焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれま す。」とはこういうことです。すなわち舌に たとえられる教師を通して、教会全体が汚され焼かれ、さらにゲヘナ、地獄にまで落とさ れてしまう、という恐るべきことがらが書かれているのです。
 
恐ろしい記述ですが、このことはしかし、 事実です。教師が惑わされて聖書で禁止されている同性愛を受入れたりすれば教会全体が同性愛を受入れ、ソドムの様な教会になり、 確かに教会全体が汚されるようになるのです。そして、同性愛は神のことばで禁止されていることがらですから、この様な罪を受入れた教会の信徒たちはみな、その日神により 罪を問われ、ゲヘナの火に入るようになるのでしょう。
 
さらに火は、霊的なことがらをあらわすたとえでもあります。教師がペンサコーラの悪霊リバイバルの霊を受けて、教会でメッセー ジをすれば、会衆一同が火で焼かれ、悪霊の火で焼かれるようになるのです。教師を通して会衆が地獄へ入る?これは悪い冗談の様に 聞こえるかもしれませんが、聖書に書かれたことばですから、真面目に考えて見ましょう。 実はこのこと、教師を通して会衆がゲヘナ、 地獄へ落とされる、ということは他でもない主ご自身が語られていることでもあります。 以下を見てください。
 
マタイ23:15 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。
 
ここでは教師である律法学者、パリサイ人 たちが誤ったために彼らによって教えられた 人々がゲヘナ、地獄の子になることが書かれています。ゲヘナの子なのですから、死後天 国ならぬ地獄へ直行するようになるのでしょう。恐ろしいことですが、主ご自身が語られ たことなのですから、これは真実なのでしょ う。いかに惑わされた教師が災いになるの かがわかります。
 
 ヤコブ 3:9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、 神にかたどって造られた人をのろいます。
 
 3:10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あ ってはなりません。
 
 3:11 泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょう か。
 
 3:12 私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじく の実をならせたりするようなことは、できる ことでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。
 
ここでは同じ一人の教師を通して、賛美と 呪い、その両方が出てくる、ということが語られています。このことは事実であり、同じ 一人の教師を通してあるときは神への賛美、 祝福を受けます。また時には同じ教師を通し て呪いや苦い水を受けるようになるのです。
 
すなわち、同じ教師を通して、ある時は聖 霊が下されます。しかし、同じ教師を通してある時はペンサコーラの霊の様な悪霊が下されるのです。このことは事実です。あるとき は祝福、あるときは呪いを同じ教師を通して受けるのです。それをさして、「泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。」と語られているのです。そして、このことはあるべきではありません。
 
教師となったなら、その人はいつでも聖霊 の器となるべく、心がけるべきなのです。悪 霊や、苦い水を下すべきではありません。
 
 3:14 しかし、もしあなたがたの心の中に、 苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。
 
 3:15 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。
 
ここでは、教師が真理に逆らって偽ること、さらに神からの知恵でなく、悪霊からの知恵を講壇で語る危険について語られていま す。
 
あってはならないことですが、講壇の上から神のことばに逆らうような悪霊の知恵に基づいた教理が教師によって語られる、ということは今の時代においてよくあることなのです。
 
たとえば、19世紀に教会に入ってきた、 J.N.ダービーの艱難前携挙説、この説などは まさに悪霊の悪知恵に満ちた教えです。この教理を受入れたゆえに今の教会もクリスチャ ンもみな、終末の艱難に対する備えを失って しまったからです。
 
 また、ヤベツの祈りは魔術の原則を奨励する本です。魔術の祈りとは、同じことばを何度も何度も用いて繰り返して祈り、神に強制する祈りだからです。このようにして悪霊の 知恵は教会で用いられています。さて、冒頭の黙示録のテキストに戻りましょう。
 
 “14:18 すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、 鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。 「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを 刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
 
 14:19 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大き な酒ぶねに投げ入れた。
 
  14:20 その酒ぶねは都の外で踏まれたが、 血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわ に届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。”
 
 この箇所を順に見ていきたい、と思います。
 
14:18 すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭 いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。 「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを 刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
 
14:19 そこで御使いは地にかまを入れ、地の ぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大き な酒ぶねに投げ入れた。
 
ここではぶどうに関して書かれています。 ぶどうは以下の様にキリストと関係のあるこ とばであり、教会やクリスチャンと関係のあることばです。
 
ヨハネ15:1「わたしはまことのぶどうの 木であり、わたしの父は農夫です。」
 
そして、ここでは、そのぶどうが集められ て神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れられたことが描かれています。背教の教会やクリスチャンへの裁き、罰が行われることが暗示されるのです。
 
ですので、終末の日には背教の教会やクリスチャンに対して厳しい裁き、罰が下されるようになることを知りましょう。
 
14:20 その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広が った。”
 
この箇所には馬のくつわが出てきます。そして馬のくつわは今まで見てきたように明ら かに教師をさすたとえです。そして、ここでいわれている主旨はこうです。終末の日、黙 示録の日には、神の怒りや裁きや罰は馬のくつわ、すなわち教師にまで至ることがたとえで語られているのです。そうです、この箇所では「馬のくつわに血が達する」との記述を 通して、終末の日に教師への裁き、罰が下されることが暗示されているのです。
 
はっきりいいます。その罰は、かつての偽 善教師であるパリサイ人、律法学者に語られ たように、ゲヘナ、地獄に達する恐ろしい罰 となるでしょう。
 
ですので、僭越ですがみことばの奉仕に携わる人に対して私は語ります。神の働き、神 のことばに連なる奉仕を我々がになっているなら、それは感謝です。しかし、語ることばに気をつけこの奉仕に関して神への恐れを持 つべきなのです。
 
クリスチャンは決して地獄へ行くことなど はない、まして牧師はありえない、などの妄言を信じてはいけません。主が教師である律 法学者や、パリサイ人に対して、ゲヘナに行 くことを警告したなら、今の時代の教師もそ の奉仕しだいでゲヘナ、地獄に入る可能性があるのです。
 
ですから主を恐れ、この方のことばを忠実 に語れるよう、つとめましょう。いつまでも 艱難前携挙だの、2段階携挙だののインチキ 話を語るべきではないのです。
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