mixiユーザー(id:6486105)

2021年07月20日21:31

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『やがて笛が鳴り、僕らの青春は終わる』

 今日も平々凡々な一日、わざわざ特記すべきことがない。
 畏友から東京五輪とそれを迎え入れる日本国民を嘆く長文メールが届いたので返信する。ノーリード犬の飼い主にまつわる情報を報せてくれたメールが届いたので、これまたお礼の気持ちも込めてメールで返す。
 だらだらと詩人の創作ノート翻刻文を校正し、このところ全然クルマに乗っていないので片道25分のホームセンターへ、ラズリのおやつとバスマジックリンを求めにドライブがてら行く。高いガソリンを消費してまで行くのも考えものだが、他方、私と同世代でクルマを所有し運転する者がどんどんといなくなって、関東圏で自家用車を有している知人は数人にまで減ってしまった。クルマを運転する能力というのは日常の慣れで保つことができるのだが、他方、年齢とともに能力自体が低下していくものだ。生活圏が鉄道網に組み入れられてないエリアの住民だと、仕事や生活はクルマがないとほぼ成り立たないので高齢者になってもクルマを手放すことはできないし、ぎりぎりまで手放さない。運転技術は生活力に直結しているのだ。そして、このことはクルマの運転に限らず、都市部に較べて地方在住者は自分の力で生活を維持することが求められている。はっきり言うと、都市生活者というのは専門業務に長ける者が多いものの、なんでも金で解決できる環境下ゆえ、生活力は乏しい。水漏れがあると業者を呼ぶ。自転車がパンクしたら自転車屋へ行く。米や水やビールはネットで注文すれば翌日配送してくれる。それも地方より安い値段で。
 自身、生活能力があるほうだとは言えない。だからクルマの運転はある意味、地方在住者とは違った意味で「生命線」的な面があって、これが出来ないと自分はまた一歩後退するという不安感がある。こういう痩せ我慢的なベクトルはいつまで続くのだろう? 
 闘病中の友人が退院し、自宅に戻ってきた。介護ベッドを導入し、要介護認定を受けて訪問介護を定期的にしてもらうようだ。彼の場合は一般的な老いの問題とは一見違っているが、根本のところでは同じである。
 学生時代の終わり頃、三田誠広の『やがて笛が鳴り、僕らの青春は終わる』という小説を面白く読んだ。大学のラグビー部が主人公で、最終試合で強豪相手になんとか得点を入れたいというエンディングが待ち受ける映画「頑張れベアーズ」みたいな筋立てなのだが、このタイトルは実にもじりやすい。『やがて笛が鳴り、私の人生が終わる』、ああなんだかイヤだなぁ。
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