正午、NHKのニュースを見てから、明日訪ねて来てくれる畏友のお土産を買いに、街中へ出かけた。銀行で現金を下ろし、豊島屋で鳩サブレーを買い、さらに隣合ったスーパーでコーヒー豆とお茶菓子を買った。
昨日と同様の暖かな陽光だったが、木枯らしと呼ぶにふさわしいような旋風が時たま吹いていた。
早くうちに帰って熱い珈琲を飲みたい。
スーパー近くのベンチに鎌倉ではあまり見かけないホームレスが座っていた。
なにげなくホームレスの顔を見た。
まさか、と思ったが、声が出てしまった。
「〇〇〇さん?」
大きな声だったのだろう。彼女は私を見て、「あらまあ……」と素っ頓狂な声を出したあと、なんだか私を小馬鹿にするような笑顔になった。
私の友だちの奥さんだった。
全身が垢じみているのか、顔は真っ黒に日焼けしたような色で、二重三重に襤褸をまとっている。呆気にとられているのはこの私で、彼女は平然とした表情だった。
「どうしてまた……」と言葉を探しながら狼狽えた。
「XXさんは元気だよね?」と友人の名前を挙げて尋ねたら、「死んだ」と言う。
さらに頭の中が混乱した。
死んだ? 死んだって? 俺の聞き間違い?
「死んだっていつ?」
「うーん、今年の6月頃かな」
意味がよく掴めない。亭主の死に「頃」って付けないはずだ。
私は言葉を失ってうつむいた。
「鳩サブレー、ちょうだい? でも函入りだったら1枚だけはもらえないか」と彼女は言って、初めて笑った。
しばらくの間、彼女にあらためてXXさんの死について、ホームレスになったことについて尋ね、彼女の返答をじっくりと聞いた。が、架空の話を聞いているような頼りなさがあって、20分くらいが経った頃、辛抱たまらず「じゃあ、いったん失礼する。今日はこの場にまだいるの?」と言って、帰宅した。
うちに帰って超簡単なランチをささっと済ませ、今日買ったばかりのコーヒー豆をミルで挽いて淹れ、それをタンブラーに入れて、ふたたび街中へ戻った。
まずスーパーに行って、おにぎり弁当とサンドイッチを買った。右手にタンブラー、左手にレジ袋。
彼女はそこにいた。
それから1時間半ほどあらためて話をした。XXさんの死について、ふたりの関係について、ホームレスになった経緯について、生活支援を受ける意志について。
質問は最小限にして彼女が語る話を黙って聞いていた。普段どおり、相手の目を見て話を聞く。
話がよく見えない。精神的なショックが引き金になって、頭の中がとっちらかっているのだろうか? もともと妄想的な女性であったことを踏まえると、難解な本を丁寧に読むような根気強さが必要だった。
タンブラーのコーヒーを何度にも分けて彼女は飲んだ。量的には1.5杯分くらい入るタンブラーなのだが、もっと大きな「水筒」で用意したほうがよかったのか。
うちに来てもらうことをずっと考えていた。
が、不潔さとよく理解出来ない会話に耐えられるだろうか?
冷酷な自分にメゲそうになりながら、午後3時半頃、彼女から離れた。
その足で社会福祉協議会に行った。
2時間半前、私はネットで調べて、社会福祉協議会に電話をしていたのだった。その際、電話口に出た女性は「生活保護なら市役所に行かれたほうが早い」と答えられたのだが、ホームレスの〇〇〇さんは既に市役所の人から数回、コンタクトを受けていて、あまりいい印象ではなかったようだ。
福祉協議会の女性は私がいきなり来たものだから、緊張しただろうと思う。
「今日は寒風が吹きすさんでいます。どうしても彼女が心配で」と切り出したら、あらためて話を聞いてくれて、これから市役所へ一緒に行きましょう、と言った。
5分後、市役所で私はあらためて、事情を話した。担当してくれた人は既に3回ほど、彼女に公的援助もあります、ということを伝えているという。
話しながらずっと私は後ろめたかった。予報では冷え込む夜だ。せめてうちに泊まってもらうのが人間としての務めだ、と。
市役所としては、本人の意志しだいだという。そうだろう。
「でも、これから寒くなる一方です。東京のように地下街があるわけでもないこんな田舎でだと、夜を越すのはとてつもなくしんどいです」
私はただただ阿呆な訴えを繰り返すだけだった。
身体が限界になっていた。
庁内を出て、うちに戻った。
XXさんが死んだ。
〇〇〇さんがホームレスになった。
帰宅してすぐに、共通の友人である男に電話をした。
哀しみよりも不条理に襲われて、鬱になりそうだ。
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