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2020年06月06日12:39

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盛岡の物語

盛岡には不来方橋と言う北上川を渡る橋があります。不来方は盛岡の古名です。
不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心 この歌の不来方のお城とは盛岡城のことです。
明治時代、盛岡が岩手郡にあったから岩手県と名付けられました。この岩手郡の地名の由来も
不来方の由来も鬼の伝説がもとになっています。
昔岩手山に住んでいた鬼が盛岡のあたりを荒らし回り、村人を苦しめていました。三ッ石神社の神は、鬼を懲らしめ、鬼が二度と村に来ないことを約束させました。鬼は約束の証として巨大な石に手形をつきました。鬼が来なくなった三ッ石神社のあたりは不来方と呼ばれるようになり、この伝説が由来となってこの周辺地域を岩手郡と呼ぶようになったと言われています。
三ッ石神社では鬼が手形を押した3つの巨大な岩が御神体となっているようです。
三ッ石神社は無人杜なので、御朱印はありません。御朱印はスタンプではありません。しかし、例えば、三ッ石神社の管理社で三ッ石神社の鬼の手形の御朱印と三ッ石神社の由緒書きが拝受できるようになれば、盛岡の鬼の伝説を知る人が増え、盛岡の物語を知ってもらうことができます。
盛岡城には石川啄木の歌碑がありますが、小さいし分かりづらいです。例えば、盛岡城に芝生のスペースを作り、新しい歌碑を建てて、「啄木と一緒に寝てみよう。」と言う看板を立てれば、目立たない歌碑が寝ころんで空が見れる体験できる歌碑に変わります。
盛岡の城と城下町を作るのには35年かかりました。城下町を作るのに35年かかったと言う話は他で聴いたことがありません。
なぜ35年かかったのか。雫石川と北上川の合流地点に城下町を作ったため、治水が極めて困難だったからです。
なぜ治水が難しい場所にあえて城下町を作ったのか。
北上川、雫石川の水運を使って物資を城下町に集めるため、また集めた年貢米を北上川の水運を使って江戸に送るためだと言われています。
盛岡城と城下町の建設に最も貢献したのは二代藩主南部重直です。しかし、盛岡城には南部重直の銅像がないし、とんでもない時間と手間をかけて盛岡の町が作られた歴史も分かりません。
盛岡には物語があります。しかし、盛岡市は観光客にその物語を伝えられていないと思います。
盛岡市は北東北の交通の要衝であり、観光資源もあるのですが、うまくアピールできていないと感じます。
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