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2018年12月12日11:50

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7.封鎖突破船「ヴェーザーラント」(Weserland)

 封鎖突破船「ヴェーザーラント」の前身は1922年に建造されたタンカー「エルムラント」(Ermland)であり、第二次大戦勃発時には高雄港に停泊していました。その後1年近く高雄港に留まったあと、1940年7月28日に高雄港を出港し8月5日には神戸港に到着しました。
 1940年12月29日、「エルムラント」は封鎖突破船として神戸港を出港し、一路ボルドーを目指しました。途中1941年1月5日〜9日の間にはマーシャル諸島周辺で仮装巡洋艦「オリオン」、随伴タンカー「Ole Jacob」と会合し、撃沈した商船の船員350名を移乗させました。また装甲艦「アドミラル・シェアー」からも商船の船員56名を移乗させました。「エルムラント」はその後ホーン岬から大西洋を突破し、1941年4月4日に無事ボルドーに到着しました。
 「エルムラント」は「ヴェーザーラント」(Weserland)へと改名され、1942年8月17日にボルドーを出港すると、再び日本へ向かうためビスケー湾に乗り出しました。しかし、オルテガル岬(Ortegal)沖で3機の敵機に襲撃され、対空砲火で2機を撃墜し1機は撃退しましたが、近海では「ウッカーマルク」(Uckermark)も攻撃を受けたため、スペインのフィステーラ(Finisterre)に一時退避したあとボルドーに引き返しました。
 1942年9月9日、「ウッカーマルク」と共に再度ボルドーを出港する際には水雷艇T10、T13、T14の3隻が護衛として付き添い、ビスケー湾を突破しました。その後大西洋〜インド洋を突破して1942年12月1日には前日に「ウッカーマルク」の爆発事故があったばかりの横浜港に入港しました。乗員は鎌倉で休養を取り長い航海の疲れを癒しましたが、鎌倉で休養していた乗員からは後に潜水艦Uit24の乗組員として転属したものもいるため、一部の乗員はここで交代し、そのまま日本に長期滞在した乗員もいたものと思われます。
 1942年12月28日、「ヴェーザーラント」はカロリン諸島のラモトレック(Lamotrek)環礁へと向かい、ここで仮装巡洋艦「オリオン」と随伴タンカー「Ole Jacob」に会合しました。これは1941年1月5日以来でしたが、会合は数時間で終了し「ヴェーザーラント」はそそくさと分離して日本へと帰還しました。
 1943年1月5日、横浜港を出港した「ヴェーザーラント」はバタビアへと向かい、ドイツ向け貨物として生ゴム、錫、タングステンを積載すると2月6日バタビアを出港しましたが輸送は中止となりバタビアへと引き返した後、横浜港に帰還しました。
 1943年10月26日、再度横浜港を出港すると、今度は順調にインド洋を突破し、大西洋ではイギリス貨物船「Glenbank」に偽装しながら大西洋を北上しました。

 1944年1月1日アセンション諸島を発進したVB107の哨戒機は7時40分に北上する独航貨物船を発見し、アメリカ海軍の駆逐艦「Somors」が情報により直ちに現場海域に急行しました。貨物船はケープタウンからモンテビデオに向かうイギリス貨物船「Glenbank」と名乗りましたが、B24(ブラボー9)が接近すると対空砲火を開始し、B24は損傷して基地に帰還しなければなりませんでした。9時30分こんどは別のB24(ブラボー12)が再び貨物船を発見して接近しましたが、再び対空砲火で損傷して基地に引き返しました。
 1月2日、4機のB24が貨物船を発見し攻撃を開始しましたが、今回も激しい対空砲火によりこのうちの1機のB24(ブラボー12)が被弾し基地に引き返しました。ブラボー12は昨日ほど幸運ではなくエンジン3基が停止するなど大きな損傷のため基地の手前でついに墜落し、搭乗員9名は全員戦死しました。
 再三にわたり強力な対空砲火で哨戒機を退けて姿をくらますかと思われた「ヴェーザーラント」でしたが、1月3日22時にはアセンション諸島〜ブラジルのCaravelas、Bahiaの間のほぼ中間の海域で駆逐艦「Somors」がついに「ヴェーザーラント」を発見しました。駆逐艦「Somors」は23時に砲撃を開始し、4日の0時30分に撃沈しました。対空戦闘で戦死した5名を除き乗員の133名(士官17名と水兵116名)は全員救命ボートで脱出し、4時には駆逐艦「Somors」に救助されモンテビデオ港に運ばれました。
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