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2019年12月14日06:58

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大乗仏教の見事なシナリオ

 エデンが西方にあり、その東に私たちの住む世界がある。これは仏教でも同じで、阿弥陀仏は西方の極楽世界にいる。だが、東方にも浄土があり、そこに住む阿閦仏(あしゅくぶつ)を知る人は少ない。阿閦仏は、阿弥陀仏と対をなす仏として、大乗仏教の最初期に登場する仏である。東方の妙喜(みょうき)世界を主宰し、右手を大地に向けて垂らす姿で表され、密教では金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)の東方に配される尊格。
 大乗仏教は紀元前後に現れた新しいタイプの仏教。それ以前の仏教は、悟りを得られるのは出家者のみと説くのに対し、大乗仏教は出家、在家を問わず、誰でも釈迦と同じ悟りを目指すことができると説く。今風に言えば、仏教の大衆化である。そして、宇宙には私たちが住む娑婆(しゃば)世界以外にも多くの世界があり、さまざまな仏がそれぞれの世界で現在も説法していると考える。つまり、仏教が説く宇宙は多世界であり、その存在論、意味論が整合的に作られているかどうか私には全くわからない。数多の経典の間に矛盾がないかどうか、統一的な調査結果を知らない。どのような意味での多世界なのか、考えてみる意義は十分ありそうであり、グノーシス的な考察が必要となるだろう。
 昔、この娑婆世界を去るはるか東方に阿比羅提(あひらだい)と名づける浄土があり、そこに出現した大目如来の教えを受けて、怒りを断じて悟りを得ようとの願いをおこし、長年にわたり功徳を積んだ結果、ついに成仏したのが阿閦仏で、いまもその浄土で説法していると『阿閦国経』に説かれている。インドの阿閦仏の信仰は、西方の阿弥陀仏の信仰よりも古くから行われていたが、弥陀信仰が盛んになるに及んで衰えてしまった。
 阿閦仏の生涯を記す経典はこの『阿閦仏国経(あしゅくぶつこっきょう』しかない。インド原典は残念ながら発見されておらず、漢訳2本と、チベット語訳が1本ある。3訳ともに異なる題名が付されているが、2世紀後半に漢訳された最古訳の『阿閦仏国経』の名前で呼ばれる。
 悟りを得たいと決意することを「発菩提心(ほつぼだいしん)」あるいは「発心(ほっしん)」と呼び、それに向けて立てる誓いが「誓願(せいがん)」。阿弥陀仏の四十八願のように、阿閦仏も独自の誓願を立てた。阿弥陀仏が利他的な誓いが多いのに対し、阿閦仏は自戒的な誓いが多いのが特徴。阿閦の誓いを聞いた大目仏が、「全ての生き物に対して心を揺れ動かさないとは、実にすばらしいことである。この修行者に「揺れ動かない者」と名づけよう」と言い、サンスクリットで「不動」を指す「アクショーブヤ」が彼の名前になり、「阿閦」はその音写語と考えられる。
 大乗仏教というパラダイムシフトは多くの経典を生み出し、そこに信仰、信心が具体的に、叙述的に描き出され、釈迦の解脱が大衆のものとなった。自力の精神中心の悟りが文学的な想像力によってこの娑婆世界と浄土との対によって因果化され、成仏することに置き換えられた。この見事な文学化、視覚化によって阿弥陀仏を拝み、念仏を唱えることによって成仏できることになったのである。そのシフトの中で、大衆は自戒的な阿閦仏ではなく、利他的な阿弥陀仏を選んだようである。

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