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2019年11月16日06:26

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なぜ誰もが「故郷」に執心するのか:故郷は初体験の塊だから

 なぜ私たちは故郷に執着し、特別の愛着をもつのだろうか。これは、老人なら必ず持つ、ごくありふれた問いである。私のように若い頃は閉鎖的で退屈な故郷が嫌いだった者でも、歳をとると懐かしくなってくるのが故郷。何とも人の気持ちはいい加減なものなのだが、そこにつけ込むのが故郷への納税や移住であり、それを促進しようという中央主導に追随する地方の魂胆である。
 故郷が好きであれ、嫌いであれ、とにかく故郷は私たちの心の中で大きな役割を占めている。北海道にも鹿児島にも同じ程度の関心しか持たないのに対して、故郷は何かと気になるのが私の今の姿。それは私だけのことではなく、成人前に故郷を離れ、東京に出てきた人たちがもつ故郷への想いの共通の姿なのかも知れない。
 タイトルの問いへの私の答えは「初体験」。生まれたところが故郷で、その故郷は初体験の宝庫ゆえに、その初体験の地に執心するというのが私の答えである。生まれ育った故郷で人はありとあらゆる初体験をもつ。「人はその経験の所産である」ことと結びつけるなら、故郷こそ正に人をつくる根源ということになる。家族、友人、学校、社会、風俗、食物等々、生活のほぼすべてが故郷でスタートする。天変地異、火事、事故等々も生まれて初めて故郷で体験する。
 初体験の山塊と言えば、富士山ではなく妙高山。時には憎み、時には愛で、生活の中で深く絡み合った生活に必需の要素が雪。スキー場で楽しむ雪だけでない雪に対する深い感情を雪国の子供たちは自ずと雪体験から学習し、それを身につけていく。だから、雪国を故郷とする人にとって、雪国の雪は雪の降らない東京や西日本の雪ではない。
 子供の経験は故郷での経験から始まり、その経験がその子供の未来を決めていく。人生のルーツは故郷の経験にあり、それゆえ、人生の最初の意義は故郷でつくられる。
 だが、故郷は二面性をもっている。故郷での経験は楽しいものばかりではなく、時には辛く、暗い経験もある。苦しい経験から逃れるために故郷を離れる人も多い。故郷は天国でも地獄でもあり得る。
 そんな故郷での過去の経験を包み込むのが記憶の魔術。時が経つと、かつての悲喜こもごもの経験は記憶の中で熟成され、発酵して甘酸っぱい経験に変身する。初恋の人が故郷にいたように、初体験も故郷での懐かしい経験として心に残る。
 私たちは風化する記憶、朽ち果てていく記憶の最後の輝きを今の故郷に重ね合わせ、束の間の時空旅行を体験することができる。それは快感でさえある。遠くにあった故郷は記憶の中で蘇り、現実の故郷と重なり合う。無くなった家族、建物、行事等が記憶の中に蘇り、亡くなった人々が故郷の記憶の中に再生され、現在の故郷の中に甘く、淡く映し出されるのである。
 故郷は私たちの記憶の世界、記憶の場所である。気障な表現をすれば、故郷は記憶の形而上学のための不可欠の枠組み。過去の時空の中の世界を展開できるのは故郷であり、そこには子供の私、私の幼友だち、祖父母や両親が以前と変わらない姿で生き生きと生活しているのである。

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