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2019年10月22日05:42

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生命の変化(5)

小中生ではなく、大人のための哲学(2)
選択の単位
 生命現象の様々に異なるレベルで選択が働くということ自体に問題はありません。有機体に選択が働き、それが有機体を含む集団に、そして有機体を構成する細胞に、さらには細胞内の遺伝子に働くというのは自然に見えます。これが選択に関する階層的見解です。選択は複数のレベルで起こることができるという点で多くの哲学者や生物学者は一致するでしょう。階層的な選択を受け入れると、その中のどのレベルの選択が支配的かという問題が出てきます。種レベルでの選択を支配的とする見方さえあります。さらに、有機体に働く選択が時には集団に違ったように働き、遺伝子に対して有機体の場合とは逆の働き方をするといった場合が存在することがあります。そのような場合に、そもそもどのレベルに選択は直接に働いており、どのレベルが派生的なのかが明らかにされなければなりません。階層的レベルのどれに益するために自然選択は適応を生み出すのでしょうか。異なる適応はそれぞれのレベルに異なる結果をもたらします。下位のレベルの利益はそのまま上位のレベルの利益なのでしょうか。あるレベルの利益はすべてのレベルの利益なのでしょうか。これらの疑問が「選択の単位は何か」という問いに集約されています。
(階層)
 心臓や遺伝子はそれをもつ有機体の生存や生殖のための機能を担っているという考えは全く自然に思われます。この有機体中心の見方のもとで細胞、器官、さらには生物集団がどのような役割を有機体のために果たすか考えられてきました。この有機体中心のダーウィン的世界観を変えたらどのようなことになるのでしょうか。有機体はその組織や器官のために存在しないのでしょうか。心臓は有機体である私たちのために存在するのか、それとも私たちは心臓のために存在しているのか。遺伝子は有機体のためにあるのか、逆に有機体は遺伝子を存続させるための一時的な乗り物に過ぎないのか。有機体は遺伝子の乗り物に過ぎないと主張したのがドーキンスでしたし、もっと以前にバトラー(Samuel Butler)は “A chicken is just an egg’s way of making another egg.”(卵は別の卵を生み出すためにニワトリを使う)と自らのユートピア小説Erewhonで述べています。でも、依然として配偶子が有機体を生み出し、有機体が配偶子を生み出すという対称的な事実に対して、そのいずれに機能的な優先権を与えるべきか、それともそれは単なる約定なのか、と問われ続けています。
 これらに対する答えは、例えば群(group)を利するものが有機体も利するということを認めるならば、恣意的なものになるかもしれません。しかし、生殖能力のない働きアリを考えてみましょう。生殖能力がないことは明らかにアリの有機体には有利なことではありません。そのようなアリが自然選択の所産となることができたのはどうして可能だったのでしょうか。ダーウィンの答えは、働きアリが選択されたのはアリの共同体にとって利益があったからだというものでした。この分析が正しければ、働きアリは有機体選択ではなく、群選択の例となります。生殖不能は群を利するのですが、有機体には不利でしかありません。にもかかわらず、自然選択に関するダーウィンの実例の大半は有機体選択であり、自然選択の公式の見解は有機体選択であると多くの人が考えてきました。
 このパズルをより一般的な形で考えてみましょう。現在の自然主義的な見方では自然は階層的なシステムとして理解されています。生物だけを考えても、遺伝子、染色体、細胞、器官、有機体、同種の集団、複数種の共同体という風に階層的な系列を考えることができます。このような階層の中で、もし器官が有機体を助ける機能をもっているのであれば、有機体も集団を助ける機能を担っていると言えるのではないでしょうか。機能に関するこの問題は適応(adaptation)という概念を使って表現するとより正確になります。有機体のある性質が適応であるとは、その性質に対する選択が過去にあったゆえにその性質が進化したということです。その性質に対する選択がなぜあったのか考えてみましょう。その性質はそれをもつ有機体に有用であったから進化したのか、その性質が具体化されている集団に有用であったから進化したのか、それとも何か別のレベルの対象に有用であったから進化したのか、いずれでしょうか。この問題こそ選択の単位の問題と呼ばれるものです。これらの場合と一般的な場合について選択の単位を定義してみましょう。

有機体は系統Lにおいて形質Tの進化における選択の単位である
⇔ Tは有機体の利益に寄与したためにLにおいて進化した。

群は系統Lにおいて形質Tの進化における選択の単位である
⇔ Tは群の利益に寄与したためにLにおいて進化した。

遺伝子は系統Lにおいて形質Tの進化における選択の単位である
⇔ Tは遺伝子の利益に寄与したためにLにおいて進化した。

Xは系統Lにおいて形質Tの進化における選択の単位である
⇔ TはXの利益に寄与したためにLにおいて進化した。

それをもっていたことで有機体に利益を与え、そのために進化した形質は有機体の適応です。それをもっていたことで群に利益を与え、そのために進化した形質は群の適応です。それをもっていたことで遺伝子に利益を与え、そのために進化した形質は遺伝子の適応です。したがって、どのような種類の適応が自然に見出せるかを決定する問題が選択の単位の問題ということになります。
 これら定義の二つの論理的な特徴に触れておかなければなりません。第一に、選択の単位という問題は現在の有用性ではなく、進化の歴史に係わっています。群が現在ある性質をもち、それが群を絶滅から救っているとしても、その性質が絶滅から救うという効果をもつゆえに進化したかどうかは異なる問題です。その性質が別の理由で進化したのであれば、それは偶然にその群に利益を与えているのであり、群適応ではありません。第二に、異なる性質は異なる理由で進化し、単一の性質はさまざまな理由で進化したかもしれません。ある性質は有機体適応で、別の性質は遺伝子適応ということがあります。進化すべてにわたって単一の選択の単位を考えるというのは誤っています。
(遺伝子、有機体、群)
 バトラーのニワトリと卵のパズルによって出された問題は群適応、有機体適応、遺伝子適応の関係に引き写されます。ある形質が群適応であると言うこととそれが有機体適応や遺伝子適応であると言うことの間に何か客観的な違いがあるのでしょうか。この問題に対して利他主義の場合を考えてみましょう。利他的な形質を有機体や遺伝子がもつことは不利ですが、群がもつ場合は有利な形質です。遺伝子や有機体だけが選択の単位であるなら、自然選択は常に利他主義の進化に不利になるように働きます。群が時々は選択の単位になるなら、自然選択は時々は利他的な形質に味方します。群にとって有利な点は有機体には有利でない場合があるのです。
 単一の集団内で有機体が別の有機体と競争するなら、自然選択は利他的な有機体よりは利己的な有機体に有利に働き、利己的な有機体は一方的に利他的な有機体から利益を享受します。他方、群が別の群と競争し、利他的な有機体の群が利己的な群より有利であるなら、利他主義が進化し、維持されます。有機体の適応は有機体の選択過程によって進化し、群適応は群選択の過程によって進化します。選択の単位という問題は、自然に見出される適応の種類に係わっているので、観察される形質を生み出す選択過程の種類に関係しています。利他主義的な自己犠牲が有機体には致命的ですが、群には有用であるなら、それはどのように進化できるのでしょうか。ダーウィンはある特定の群の中では利他主義者は利己主義者より分が悪いが、利他主義者の集団は利己主義者の集団より分がよいと考えました。つまり、利他主義は群選択によって進化できます。
 では、現在はどのように考えられているのでしょうか。集団遺伝学者は利他的性格の進化に関しては懐疑的でした。フィッシャーは性の進化を除いては群のための選択は誤っていると考えました。ホールディンやライトも利他主義については疑いをもっていました。でも、三人とも利他的性格が進化し、維持されることが不可能であることを示してはいません。彼らの基本姿勢はそれが起こっても極めて希でしかないというものでした。これら集団遺伝学者の論証は単純な量的モデルを考えることに基づいていました。しかし、同時代に生態学者や野外の研究者によって利他的な特徴をもつ有機体が観察され、それが群選択という考えによって説明されました。アリー、エマーソン、シュミット(Allee、Emerson、Schmidt)らは群選択を使って結果を説明しました。ウイン・エドワーズ(Wynne-Edwards)は長く持続する生物集団を考え、そのような集団の維持には利他的な個体が不可欠であるとしました。これと類似の考えは当時の動物行動学者の間にも見られます。例えば、同種の中での争いが死に至らないことは種を保存するための適応であるというのがローレンツ(Konrad Lorenz, 1903-1989)の説明でした。儀礼的な争いは利他的で、群のためによいことですが、有機体には必ずしもそうではありません。
 集団遺伝学者と野外の研究者の利他主義への意見の違いには興味深いものがあります。現在、数学的なモデルを通じて世界を見るか、有機体の群の細部にわたる現象的な知識を通じて世界を見るかのいずれかで生物学者は研究しています。もし数学的モデルが利他主義は希な場合に過ぎないと予測するなら、その予測に対する態度には二つ考えられます。一つは数学的モデルが誤りというものです。他は、モデルの内容を真剣に受け取り、利他主義に見えるものは実はそうではないと主張することです。
 1930−1962年の間、これら二つの陣営は互いに接触がほとんどありませんでした。1966年のウイリアムズ(George Williams)の『適応と自然選択(Adaptation and Natural Selection)』の出版で事態は一変します。群選択の仮説は誤った思考法の結果であるというのが彼の論旨です。自然選択がどのように理解されるべきかについての基本的な考察から群選択が実りのない概念であることが結論されました。彼の論証は経験的データに基づくものではなく、論理分析の結果でした。
 ウイリアムズの本の出版の数年前に、ハミルトン(William Hamilton, 1936-2000)は動物の社会行動の進化に関する論文を発表しました。彼はいかに協同的な行動が協同者に有利になるかを示しました。彼は、有機体によるその協同者への利他的行動がそれを行う者のダーウィン的な適応度(=有機体の適応度)の減少という犠牲をもたらすが、賢明な利他的行動によってその有機体の子孫は増えることができることを、適応度を拡大した包括的適応度(inclusive fitness)を使って論証しました(包括的適応度は有機体自身の適応度にその血縁者の適応度への自身の効果を加えたものである)。ハミルトンの論文は利他的に見える行動が遺伝子から見れば利己的行動の一つに過ぎなく、見かけの利他的行動が真の利他的行動ではないと主張するものでした。有機体に直接有利、不利になるだけでなく、その子孫までも考慮に入れて適応度を考えるには、有機体のもつ遺伝子や遺伝子型をもとに議論を展開しなければなりません。彼の議論から選択は遺伝子に対して働くという考えが必要となってきます。
 ウイリアムズはその本の中でメスのほうが多いことは一見群選択と適応の証拠に見えるがそうではないことを述べています。フィッシャーの論証によれば性比はオスとメスで同じでした。もしオスとメスが同じコストならば、同数のオスとメスが生まれるでしょう。彼はこのフィッシャーの論証を使って、メスのほうが多いことが群には都合がよいことだが、純粋に有機体レベルの説明はオスとメスの性比が同じことを予測すると考えました。
 ウイリアムズ以降、多くの生物学者が群選択のさまざまな数学的モデルを研究しました。そこでは利他的な性格が進化し、維持されるのがいかに簡単か、いかに難しいかが問われました。そこから得られた結論は、利他主義はパラメータの極めて狭い範囲でだけ進化できるというものでした。つまり、利他主義は不可能ではないが、ほとんどあり得ないことでした。
 その後、群選択の考えが完全になくなったわけではありませんでしたが、生物学者の多くはそれを使うことに積極的ではありませんでした。群適応という考えが拒絶されるとしても、それは正しい理由で拒絶されなければなりません。ウイリアムズの群適応への批判は否定的な面だけでなく、肯定的な面も含んでいました。ダーウィンは有機体が選択の単位であると考えていましたが、ウイリアムズはその考えに戻りませんでした。彼は群だけでなく、有機体も選択の単位ではないと考えました。彼にとっての選択の単位は減数分裂で分離された遺伝子でした。これはドーキンス(Richard Dawkins)が『利己的遺伝子(The Selfish Gene)』で普及させた考えです。では、遺伝子選択とは正確に何なのでしょうか。有機体と群の間に有利さで違いが生じるように、有機体と遺伝子の間にも有利さで違いが生じるはずです。ドーキンスは自分の立場を明らかにするために、「複製子(replicator)」(遺伝子がこの典型例だが、遺伝子以外にも考えられる)と「乗り物(vehicle)」(有機体がこの典型例だが、有機体以外にも考えられる)という用語を導入します。ハルは(David Hull)これらの用語を変形し、「複製子」と「(相互)作用子(interactor)」と命名し直しました。ハルの定義によれば、複製子は複製の際に直接にその構造を伝える実体です。遺伝子はそれ自身を直接に複製しますが、有機体の形質はそれ自体が直接にその子孫に伝わるわけではありません(遺伝子は伝達されるが、発生は生起しなければならない)。他方、作用子は複製に差が出る仕方で環境と相互作用する統一的な実体です。そして、選択は作用子ごとに異なる絶滅や増殖によって、それをつくる複製子の異なる存続結果を引き起こす過程であると定義されます。これらの定義から二つのレベルの選択という問題が出てきます。どのレベルで複製が起こるのか。どのレベルで相互作用が起こるのか。ですから、ある意味ではドーキンス(そしてウイリアムズ)の遺伝子選択主義は公式的な見解に反するものではありません。彼らは選択過程における作用子として有機体を認めます。遺伝子は複製の単位であり、有機体はそのような遺伝子の乗り物で、選択が直接に働くものです。それゆえ、論争は二つの側面のいずれを選ぶかという論争になります。
 しかし、この結論は複製子と作用子のいずれが選択過程における因果的な主役かという選択単位の論争を見過ごすことになります。ソーバー(Elliott Sober)はドーキンスの立場を次のように説明します。「単一の遺伝子が選択の単位だと考える者はしばしば遺伝子を自然選択による進化の深い原因だと考えているように見える。」つまり、遺伝子が表現型の原因で、その表現型が生存と生殖の成功を決めます。さらに、自然選択の過程で実際に生存に成功したり失敗したりするのは複製子であって、作用子ではありません。この論争の一方の陣営は作用子に因果的な主役を与える人たちです。作用子の擁護者はしばしば彼らの見解がマイヤーの主張に遡ると考えます。彼は「自然選択は表現型に有利に(あるいは不利に)働くのであって、遺伝子や遺伝子型に対してではない」と述べています。作用子の擁護者は複製子が帳簿づけに適したものだとも言います。でも、彼らはそれでは真の因果的像を掴めないと論じます。作用子の代表は有機体であり、複製子の代表は遺伝子であるので、ドーキンスの複製子への肩入れは伝統的見解への挑戦となっています。ここまで述べてきたことから、いずれが選択の単位なのかという問いは次の二つの問いに分解されます。

群は稀にしか選択の単位にならないのか。
遺伝子や有機体は選択の真なる単位としてみることができるのか。

前者の問いに対してソーバーとウイルソンは、正しく定義されれば、群選択は通常考えられているより数多く起こっていると言います。彼らは利他主義が群選択というレンズを通じてよりよく理解できると論じます。これはドーキンスの遺伝子選択主義を還元主義的で、遺伝子は文脈依存的という理由で批判することです。文脈依存的とは、同じ遺伝子がある文脈では適応度を上げ、別の文脈では下げることです。他方、ステルニーとキッチャーはこの論証では遺伝子選択説を弱めることはできないと言います。というのも、選択のどの単位の適応度も必然的に文脈に依存するからです。別の説明がブランドン(Brandon)によって与えられました。彼によれば、相互作用子と複製子の二重の階層を概念的に記述できますが、相互作用のレベル(染色体、遺伝子、有機体、群、種)のどこで選択が実際に起こるかは経験的な問題です。有機体のレベルでは選択に対する多くの証拠があります。

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