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2019年08月20日07:48

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表現の自由と不自由

 「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」と燕市国上寺の「イケメン偉人空想絵巻」が話題になり、後者については既に取り上げました。ミケランジェロの「最後の審判」と国上寺の「イケメン偉人空想絵巻」を瞥見するだけで、「最後の審判」の表現の方が遥かに官能的でも、システィーナ礼拝堂で誰でも自由に見ることができます。ポルノか否かもクラーナハの女性像に比べれば、一目瞭然です。クラーナハの女性像が芸術作品として自由に展示ができるのであれば、国上寺の絵巻も何ら問題はありません。そんなことを述べました。
 「表現の自由、不自由」という表現は一体何を指しているのでしょうか。芸術はこれまで政治的プロパガンダとして使われてきました。代表的な例を挙げるなら、社会主義リアリズムとナチスによる古典主義的な芸術運動でしょう。社会主義リアリズムは、ソ連において採用された芸術の表現方法や思想の基本的指針です。社会主義を称賛し、革命国家が実現していく現状を平易に表現し、人民を思想的にまとめるという目的を持った芸術です。ナチスが賛美した写実的で古典主義的な芸術運動では、1930年代にヨーロッパで隆盛していた抽象美術や表現主義、バウハウスなどを「退廃芸術」として弾圧しました。ナチス・ドイツは「血と土」、「アーリア人第一主義」、「反ユダヤ主義」のイデオロギーを体現する純正ドイツ芸術を民衆に推奨し、音楽でもジャズが徹底的に弾圧されました。ナチスのプロパガンダという側面に加え、ヒトラー自身が印象派以降の美術を嫌悪し、古典主義芸術が賞賛されたのです。
 さて、ヒトラーが嫌った印象派について、いかに彼らが当初不自由だったかを振り返ってみましょう。印象派は戸外での制作に独特の技法を持ち込みました。それは瞬間と動き、自然な構図、色彩豊かに表現される光の効果でした。最初は敵対的であった人々は次第に印象派は新鮮で独自のものをもっていると思い始めたのです。19世紀中頃、ナポレオン三世治下のフランスの美術界は芸術アカデミーが支配していました。アカデミーは伝統的なフランス絵画を継承し、歴史的な題材や宗教的なテーマ、肖像画が重視され、風景画や静物画は軽視されていました。アカデミーには、その審査員が作品を選ぶ展覧会「サロン・ド・パリ」がありました。ここに作品が展示されたアーティストには賞が与えられ、作家の地位が定まったのです。
 1860年代の初めに4人の画家、モネ、ルノワール、シスレー、バジールは、彼らが学んでいたアカデミー美術家のシャルル・グレールのもとに集まります。彼らは歴史的、神話的な情景よりも、風景やその当時の日常生活を描きたかったいのです。彼らは田舎の戸外で絵を描きました。自然の陽光の中で、新しい鮮明な化学合成の顔料を大胆に使い、クールベの写実主義やバルビゾン派よりも軽く明るいやり方で絵を描いたのです。でも、1860年代を通じてサロンの審査会はモネとその友人の作品の約半分を落選としました。1863年のサロンの審査会は、マネの『草上の昼食』を落選としました。その理由は、ピクニックで2人の着衣の男性と裸の女性を描いたこと。サロンは非現実的な絵画ではヌードを認めていましたが、現実世界でリアルなヌードを描いたことを非難したのです。この年の落選作品はとても多く、それら落選作品を観たナポレオン三世は、人々が自分で作品を判断できるようにすべきと述べ、落選展が開かれました。 それによって新しい傾向の絵画に関心が巻き起こり、落選展には通常のサロンよりも多くの見物客が訪れました。
 その後の落選展はなく、1873年、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、ドガなどは「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社」をつくり、自分たちの作品の展覧会を企画しました。そして、30人の芸術家が1874年に写真家ナダールのスタジオで開かれた最初の展覧会に出展しました。この展覧会は、後に第1回印象派展と呼ばれるようになります。当時この展覧会は社会に全く受け入れられず、特にモネとセザンヌは、激しい批判を受けました。
 ところが、「印象派」という言葉自体は人々からは好感をもって迎えられ、芸術家たち自身もこの言葉を使うようになりました。スタイルや気性が異なる芸術家たちは、独立と反抗の精神でまず合流したのです。彼らのメンバーはときどき入れ替わったのですが、1874年から1886年まで8回の展覧会を開きました。モネとシスレー、モリゾ、ピサロは、一貫して自由気まま、日光、色彩を追求し、「最も純粋な」印象派と評価されました。
 これまでの概観から、印象派の表現の自由、不自由とは何だったかがある程度はわかったのではないでしょうか。「作品の手法、作品の内容についての自由」、「作品の発表や展示についての自由」という異なる自由が絡み合い、結びついていたのです。でも、それら自由は政治的なプロパガンダとは一線を画すものです。以前のミケランジェロの場合と比較しながら、表現の自由、不自由をそれぞれ自由に考えてみて下さい。

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