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2019年07月19日06:11

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情報の実在:「実在」の意味の多義性、あるいは相対的実在論

 世界が「空」だという唯識論の正しさの証拠になる程に、空(と雲)は私たちの心を掴む実体のない、正に空気のような変幻自在の存在。空と雲は「空」なる因縁の世界を生き生きと映像化してくれる。空と雲は共謀して思考の種子として、私たちの想像力を煽り立ててきた。だが、空や雲の経験を積み重ねるにつれ、様々な空と雲は地球や心の産物ではなく、気象学の産物なのだと気づくようになる。これら画像は私のカメラが撮ったもので、私の心の産物ではない。空を撮るカメラは光学の産物。カメラが撮った空を認識する私の心も、カメラで撮られた空も、唯識論によれば、いずれも「空」。これが唯識論。

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 主体的に生きる(=個体として生活する)システムにとって特定の対象が「実在」するかしないかは予め理論的に決まっている訳ではない。対象がそのシステムに影響を及ぼすなら、その対象はシステムにとって実在するものとなる。そのシステムに対象が影響を与えるとは、そのシステムにとって対象が有用な情報となることである。物質的あるいは非物質的にシステムに影響を与えない対象を実在すると考えるのは「オッカムの剃刀」に反することになる。それゆえ、同じものが実在したりしなかったりする例は無数にある。つまり、実在概念は相対的、かつ可変的なのである。その証拠が以下のような例である。
・色や音は、健常者には実在する(情報である)が、先天的視聴覚障害者には実在しない(情報でない)。
・色や音は、健常者には実在するが、センサーのない無生物には実在しない。
・Aさんが感じるクオリア(感覚的な性質)はAさんには実在するが、何も感じないBさんには実在しない。
・心は、普通の人たちには実在するが、唯物論者には実在しない。
・数や普通名詞の指示対象は、プラトン主義者には実在するが、非プラトン主義者には実在しない。
・神は、信者には実在するが、信者でない人には実在しない。
・霊や死後の世界は、信じる人には実在するが、信じない人には実在しない。
*上のどの文についても、「実在する=情報である」が成り立っている。
 物質的でない対象について「実在」という言葉を使う場合にはむやみに使うと混乱が生じる。この制約を無視した途端に無用の混乱、誤解、不信、そして争いが生じる。情報は、高等動物だけに実在するものではない。測定器、コンピューター、ロボットなど無機物にも実在する。この場合、情報は情報を表現する物質に担われて実在している。これが「情報的実在」である。情報の実在を認めないと測定器、コンピュータ、動物、ロボットとそれらが生み出す現象は理解できない。情報の実在は状況依存的であり、情報の非客観性やシステム依存性と矛盾しない。
 物質の実在と情報の実在では実在の意味が違っているように見える。物体の質量は、物体の中に実在する。名称、形、色の情報は、物体にではなく人間の脳の中に実在する。物体の質量の測定値という情報は、測定器に実在する。つまり、情報の実在性はシステム依存的なのである。したがって、実在という言葉は多義的ということになる。物理的実在、物質的実在、情報的実在、心的実在、機能的実在等々…
 物理学者は、実在という言葉を物理的実在あるいは物質的実在という極めて狭い意味で使う。量子力学的現象はこのような狭い実在概念のみでは理解できず、情報的実在という概念が不可欠になる。
 最後に、心の実在性に関するかつての論証を挙げておこう。あなたはこの時代遅れの論証をどう思うだろうか。
心のみが実在すると主張する唯心論がある。
物質のみが実在すると主張する唯物論がある。
両者の主張は両立しない。
それゆえ、「実在」の意味が哲学者と物理学者との間で食い違い、議論が空回りする。

(問)上記の文章を読んで、無著や世親はどのようなコメントをするだろうか。


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