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2019年05月29日04:38

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立葵の鶏冠から

 私の「タチアオイ」にコメントをいただき、立葵の鶏冠の話になった。タチアオイが街中の庭や軒先に植えられていたのを懐かしく思い出しながら、鶏の記憶が蘇ってきた。昭和の30年代前後はまだ家畜が多く、豚、山羊、鶏などが飼われていた。我が家にも豚と鶏がいた。鶏は納屋に小屋があり、多くて10羽ほどだった。一羽雄鶏がいて、後は雌鶏だった。昼間は納屋の鳥小屋から前庭に出されていたが、流石雄鶏は気が強く、子供の私は追いかけられ、よくつつかれた。残飯はじめ、野菜もよく食べ、卵も日に数個は産んでくれていた。私はその卵を白いご飯にかけて食べるのが大好きになっていた。
 我が家で飼っていた鶏はすべて白色レグホンと呼ばれていた種類で、伊藤若冲が描く鶏ではなかった。そのコメントから若冲の鶏を思い出したのだが、私が若い頃は「伊藤若冲」という名前さえ知らなかった。彼の絵を見てショックを受けた一人なのだが、日本美術史の先輩教授も驚いた一人だったようで、酒を飲むとそんな話をよく聞いた。私の記憶の中の鶏となれば、田舎の祭りの前に絞められ、ご馳走に供される老いた雌鶏と若冲描く見事な鶏冠と羽をもつ群鶏の二つが抜きんでている。
 家畜の鶏についての私の記憶は薄れ、中年以降の若冲の鶏の記憶はまだ色褪せていない。それでも二つは私の記憶の中で仲良く居場所を確保しているようなのである。
*画像は伊藤若冲の「動植綵絵」の中から「群鶏図」、「紫陽花双鶏図」である。

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