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2019年01月30日06:56

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現在主義の「瞬間」と時間間隔のスケッチ

 瞬間と永遠の時間は時間の両極端にある概念で、幾何学的には点と線がそれらに対応している。線は点の集まりであるにもかかわらず、点のもつ性質と線のもつ性質はまるで異なっている。時間は古来直線を辿るかのように過去から現在を通って未来に伸びていると考えられてきた。過去は記憶によって、現在は知覚によって、未来は想像によって捉えられ、世界は時間の中にあると思われてきた。瞬間と永遠の間には何もないかのような幾何学的な点と線を下敷きにした時間概念に多くの人が大昔から不満や疑念を抱きながらも、曖昧な因果的な物語の中で曖昧な時間概念を使ってきた。だから、時間概念の周りには運命や輪廻といった空想が数多く横たわっていた。
 そこで、瞬間と永遠の間にあるのは何かを探ってみよう。まずは、次のような例文を比べてみてほしい。

AはBである。
AがBになる。

Aが生きる。
Aが生じる。
Aが消える。

 「AがBである」と断言するには定義か、見るだけで十分であるなら、それは既存の知識か瞬間的な情報だけで十分であることを示している。「AがBである」ことを知っている、あるいは言語的にトートロジーや分析的な命題なら、いつでも「AはBである」ことから、間髪入れず、瞬時に「AはBである」。定義上の事柄がその通りかどうかは問うまでもないことであり、それゆえ、見ただけで瞬時にわかることである。
 だが、「AがBになる」と言うためには、Bになる前に先走って勝手にそうだと言うことはできない。だから、見ただけで瞬時には言えないのである。だが、理論的にAからBが導出できる場合、つまり「AがBになる」ことを知っている場合は瞬時にBだと言うことができる。だが、知るためには見て瞬時にわかるのではなく、じっくり知識を手に入れる必要がある。
 「生きる」、「生じる」、「消える」はいずれも自然現象であり、その現象が起こるには一定の時間経過が必要である。つまり、瞬時に「Aが生じる」ことが真かどうかはそもそも判断できないのである。カルノーサイクル、惑星システム、代謝システム、人の一生などは、一定の時間の幅を利用して仕事をするシステムであり、瞬間だけ切り取っても、それが何なのかは判明しないのである。実際、上記のようなシステムは時間が経過することをうまく利用して作用し、作業し、生きるような仕事を実行しているのである。それは時間を利用した巧みな適応方法であり、それによって存続してきた仕組みであり、存在様式なのである。生物にとっては「生きる」という適応がどの生物種にも共通していることを考えれば、生物は時間の経過、時間の幅や間隔を巧みに利用して生存を維持・持続してきたのである。
 「これは本である」という場合の本は一定期間本であり、今がその期間であるなら、その期間中のどの瞬間も本のままであると考えられている。それと同じように、「これは生きている」はある期間中のどの瞬間も生きていると言えるのだろうか(この問いに私たちはイエスと答えるのだが…)。どの瞬間の本の画像も本だが、どの瞬間の生き物の画像も生きているだろうか。そう問われると私たちは途端に自信がなくなる。本は確かに静止画像でも本だが、生き物の静止画像は生きていると言えるのだろうか。心配になった私たちにできることは瞬間の画像だけではなく、一定期間の動画で生きていることを確認することだろう。むろん、手で触ったり、細かく観察してみたりしても、生き物かどうかは調べることができる。いずれにしろ、動画も観察も瞬時ではなく一定の時間を要するということである。これが肝心な点で、「これは生きている」は瞬時の現象でも事実でもなく、生きる仕組みが働いている時間を要する時間幅をもった現象、事実なのである。
 このように見てくると、瞬時に成り立っている事柄は「私は日本人である」のように定義によって言われたものであって、素粒子、原子、分子のような基本物質でさえその同定に観測機器を使う場合には、時間間隔が必要であり、首尾よく定義がなされた後に瞬時の原子も存在可能になるのである。システムによって存在している対象となれば、そのシステムの働きが重要となり、働くのに必要な時間は幅がなければならないことになる。
 時間の幅を使って決められ、特徴づけられた対象の存在は、その後の理論的な定義によって瞬時にも存在できるようになる。これが巧みな点で、理論化は時間についてもなされる。つまり、理論的な瞬時の存在が仮定されることによって、対象が瞬時に存在することも仮定されるのである。
 このような主張はかつてのベルクソンを彷彿とさせる。彼が瞬間を否定し、「持続」を持ち出し、それによって生命をロマン主義的に賛美し、物理化学が見失ったものに光りを当てたと言われるが、彼の「持続」は、今風に言えばシステムをもつ対象は瞬時の同定はできず、持続する中でこそその真の姿を捉えることができるという主張の鍵になった概念だった。「生きる」ことは持続の中で捉えてこそ理解できるであり、点からなる線として考えられた時間によっては捉えることができないと彼は直観したのである。
 ベルクソンの直感的な熱狂を冷めた眼で見るなら、時間を巧みに使った適応が時間の幅の利用にあったということであり、それが進化を創造的なものにした基本的な工夫だったのである。時間を利用するとは、時間の幅を単位にした反復システムの創造であり、それがいずれも直線的な時間概念の仮定と相反するというのがベルクソンの見立てだった。だが、今の私たちはそれとは違う立場に立っている。
 以上のスケッチを丁寧に細部を詰め、ベルクソンらの主張と詳細に見比べることによって、時間論の書き換えが可能になると思われる。

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