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2019年01月29日06:40

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時間、記憶、仏教

 私たちは時間に追われて生活している。我を忘れ、時間を忘れることがあっても、それは一時のことに過ぎない。カレンダーや時計がなければ、日常生活は大混乱に陥ること必至。正に人間は時間の奴隷だのだが、そんな常識に抗して、物理学の世界では時間が実在しないことがしばしば議論されてきた。時間は実在せず、それは人の幻想に過ぎないと主張されると、その主張は私たちの常識に真っ向から反対するもので、一体どうしてそんな法螺をふくのか知りたくなる。
 そこで、私たちが知っている生活世界での時間を振り返ってみると、時間を巻き戻して過去に戻り、やり直すことができないことに気づく。時間は非対称的で、矢のように一定方向にしか進まず、行ったり来たりできないことが疑い得ない事実となっている。だが、物理学では時間は未来にも過去にも進むことができると考えられ、これが時間の対称性と呼ばれてきた。では、彼らが考える時間の本質とは一体何なのだろうか?
 既に何度か言及した「ブロック宇宙論」の立場から時間の非対称性を否定することができる。「ブロック宇宙論」は、時間とは現在から未来へ向かって流れていくものではなく、過去・現在・未来が等しいものとして存在すると主張する物理学の基本的なモデルである。4次元連続体のブロックとして世界を捉える場合、時間は次元の一つとしてモデルに組み込まれ、時間が流れる、過ぎ去るといったことは起こらない。それゆえ、時制はなく、その結果として過去、現在、未来という区別はなくなる。同じように、「ブロック宇宙論」では、過去・現在・未来にわたる全ての時間が空間的に位置づけられている。流れる時間は客観的な物理世界に実在するものではなく、「人間が生み出した意識世界の幻想」ということになる。既に過ぎた過去があるように感じるのは、私たちの脳が記憶を留めておくからに他ならず、未来があるように感じるのは脳が期待をもつことに過ぎない。
 一方、「現在主義」という別の立場から過去や未来の非実在性を主張できる。全ての場所がそれぞれの「現在」と対応するという想像上の世界が考えられる。その世界はブロック宇宙に似ているが、違いは「現在」の特権性にある。その世界ではどこに移動しても、ある任意の時間が現在になってしまうため、ここには過ぎ去った過去や、未だ実現していない未来という時間の流れは存在しない。この思考実験から、「あなたが先週存在したという唯一の証拠は、あなたの記憶しかない。ところで、記憶は「現在の」脳のニューロン構造が生み出したものである。地球に過去があったことを証明する唯一の証拠は、岩石や化石である。だが、岩石や化石から過去の存在を知るのは、それらを調べている「現在」の私たちである。要は、全ての記録(記憶)は、「現在」のあなたが持っているということ。
 ラッセルが考案した「世界5分前仮説」という奇妙な思考実験がある。ラッセルは、過去から現在に至るまで138億年にわたり存在してきたはずの宇宙(世界)は、実は今からたった5分前に作られたと考えても全く差し支えないと主張した。1億年前の化石も、現在の私たちにとって「1億年前の化石として」5分前に作られ、私たちの記憶も5分前に「私たちの記憶として」作られたため、客観的に1億年前という過去が実在しなくても、1億年前があったと考えることはできるという訳である。ラッセルはたまたま5分前と想定したが、1分前でも、1秒前でも、その主張の本質は変わらない。それどころか、一瞬毎に世界が創造されていると考えることも可能なのである。
 「現在主義」が言わんとすることも、突き詰めれば「世界5分前仮説」と同じである。つまり、記憶は「現在の」記憶でしかないため、どこまでいっても過去が客観的に実在したと証明することはできないのである。

 狐につままれたような議論であるが、これら二つの説を理解する鍵は、物理学者が対象としている時間は物理学的な時間であり、私たちが経験するような意識の時間は主観的なものに過ぎず、それは「実在」するものではないと考えている。時間の本質が本当に「ブロック宇宙」や現在主義の世界のようなものだとしたら、私たちの常識的な時間理解は一体何なのか。
 ブロック宇宙モデルは時空のすべての点に対して同等の存在論的な身分を与えるモデルで、ダイナミックに変化する時間像は物理的な実在とは独立に人間の感覚と意識がつくり出したイメージに過ぎないというのが既述の結論である。時間の流れや持続は人間の心が視点をもつことから生まれる、いわば第二性質に過ぎなく、実在するのは時空連続体だけである。では、ブロック宇宙に時制はないのか。ノートに平面座標を書き、そこに鉛筆で位置の変化を時間軸に従って記すとき、私たちの経験する時間の一部を使っているのではないのか。確かに、任意の時点を「現在」にし、時間単位の長さを自由に選ぶという二点で実際に経験される時間とは違うが、鉛筆の運動の表現に「動く時間」が暗黙の内に使われているのではないのか。だが、その使われ方は認識とその表現レベルのもので、鉛筆の動きそのものや動き方がどうであれ、記された筆跡に違いはない。描き方は様々でも、描かれた結果は同じ。そして、ブロック宇宙は描かれた結果だけからなっている。それゆえ、「動く時間」はブロック宇宙には存在せず、したがって、時制もない。
 このブロック宇宙の考えと対照的なのが(アウグスティヌスに代表される)時間の現在主義。「実在するのは現在だけである」という現在主義の主張は上述のブロック宇宙の見解とは明らかに違っている。二つの見解は極めて異なる立脚点に基づいている。現在主義は主観的な経験である「今」を拠り所にするのに対し、ブロック宇宙論は直接経験できない(4次元以上の)数学的モデルを基礎に置いている。
 現在主義者は現在の経験だけが存在し、それが他に還元することのできない変化の基本性質だと考える。だが、ブロック宇宙論はこの主観的直観を説明できないと批判する。現在主義によれば、時制が何を意味しているかを説明する唯一の方法は「今」が唯一存在している時間であることを主張することによってなされる。過去のものは「今」から過ぎ去り、未来のものは「今」が変化していくに過ぎない、過去や未来のすべての瞬間を含む客観的な時間についての話は誤りでしかない。時制をもつ事実はそれ自体が時制的でなければならず、時制のない解釈は誤っているというのが現在主義の本質的な主張。つまり、現在主義は時制主義を含意している。「第二次大戦は既に起こった」を「第二次大戦はこの言明より以前である」という時制のない表現に翻訳することはできない。日本語や英語のような自然言語は時制なしに存在するものを描くことができなく、そのため現在時制は文字通り言語的な形式である。だが、忘れてならないのは、時制をもつ文が時制なしの文に翻訳された後でも、時制のある文がもっていた外部世界についての情報は何も削られないことである。
 ブロック宇宙では時制は主観的領域へ追いやられる。ブロック宇宙モデルはあくまでモデルに過ぎないが、モデルとして公共的に表現可能でなければならない。ブロックモデルは観察者がそのような形状を実際に観察するわけではないことから、時空が実際にブロックであることを含意していない。私たちはブロック宇宙を映画の各スライドのように想像するが、そこから決定論や異なる時刻の時間的な共在が導き出されるわけではない。ブロック宇宙が主張するのは時間の輪切りが空間のそれのように互いに関係し、その関係を表現することが可能であるというだけである。ブロック宇宙としての世界という見解は決定論も運命論も含意していない。だから、それは決定論とも非決定論とも両立する。
 時間は人間の感覚から独立して実在するのか、それとも実在しないのか。「時間は流れていない、むしろ止まっている」と考えるのがブロック主義者。相対性理論によれば、「現在、過去、未来は同じ時空間に広がっているもの」で、流れるという表現は誤りである。私たちは現在にのみ存在しているのではなく、全ての時間に同時に存在している。常識的な(3次元の)時空間理論は相対性理論と矛盾している。

 私たちの常識的時間は、現在主義、三次元主義と呼ばれ、現在のみが実在し、過去も未来も存在せず、記憶と期待として意識されるだけと考える。ブロック宇宙論では、現在、過去、未来が同じ時空に同時に存在する。これら二つの中間が成長ブロック宇宙論で、過去から現在までが存在しており、未来は人間の予想に基く仮想なものと主張する。では、仏教の時間概念はこのような分類のどこに属するのか。
 仏教の最も形而上学的な研究を担った一つが説一切有部。有部は、三世(未来、現在、過去)にわたって世界を構成するものの自性(本性)が恒常なものであることから、それらが実在すると主張する。有部は、仏教における諸行無常という説をこの未来、現在、過去の時間の区別によって説明しようとする。有部の世友の説によれば、時間は実在しないのだが、時間としてまだ実現していない可能態としての未来を現実化する瞬間的な現在の位置と、実現し終わったあとの潜勢態としての過去の位置があり、ものは未来の位置から現在の位置を経て過去の位置に至るという過程を経て時の変化を説明する。この位置の変化を世友は作用の有無によっても説明する。つまり、作用がまだないのが未来のもの、作用があるのが現在のもの、作用が滅したのが過去のものである、と述べている。だが、この理論は、経量部の世親によって無常な作用と、ものの常住な自性との関係が矛盾していると指摘され、破綻に追い込まれる(と説明されてきた)。
 有部は三世にものが実在すると考えるが、経量部はこれを認めない。経量部が認めない過去、未来のものの実在性を有部は論証によって説明しようとする。その論証をまとめれば、「認識の対象は実在するから」という理由と、「認識が生起するとき、依り所としての感覚機能と認識対象が実在しなければならないから」という理由と、「業には結果があるから」という三つの理由による論証に帰着する。だが、それらは存在しないものが認識の対象になり得ることや、認識の生起の原因として未来の対象は妥当しないことや、過去の業が常住ならある特定の時に結果を生じさせることが説明できないことなどから、経量部の世親によって論破される。世親は経量部の立場から「現在が実在で、過去未来は非実在」を主張し、一瞬一瞬生じては滅する現在のもののみが実在し、過去、未来のものは現在のものの内に蓄えられた「あった」、「あるであろう」という潜在的な種子に過ぎないと説明する。なぜなら、 過去の世界、未来の世界におけるものの実在性を認めないとき、残る現在のものの範囲内で過去と未来の対象の認識を説明せざるを得ないので、現在のものとしての現在の瞬間の心における潜在的な非実在の種子が想起・期待の所縁として想定されるからである。このようにして過去・未来・現在の区別が成り立つ。有部は過去世の業の実有性に基づいて、過去の業には結果があるという説明をするが、経量部は、過去に行われた業は、有部の認めるような過去の世界には今はなく、現在のものの連続からなる相続の中に種子としてあり、その相続の特定の変化に基づき、将来に結果を生み出すのだと説明する。
 このような有部と経量部あるいは世親との論争を訳文を参考に調べると、何がわかるのか。そこには三つの常識が想定されている。
(1)釈迦が何を言ったか、伝統的な知識や物語の常識
(2)論理と言語の常識
(3)日常経験の常識
これら三つを使った議論がどのようになるかは、私たちの日々の生活での問題への対処と似たり寄ったりで、「常識は常識しか生まない」という自明の結果になる。『般若心経』の思想は日常世界の事象の変化から一般化されたものであり、それは有部と世親の論争を通じて明らかになり、それが日本仏教に引き継がれたのである。
 
 ブロック宇宙論での時間が説一切有部の時間観に近く、時制主義が世親や唯識の時間観に近く、意識の時間が時制主義的であり、唯識思想が心中心のものだということと呼応しているとしても、そこに特段の意義がある訳ではない。とはいえ、説一切有部の考えをブロックモデルによって理解し、世親の主張を時制主義的に把握するなら、説一切有部の時間についての考えが世親のそれより今の私たちには受け入れやすいように思われる。にもかかわらず、歴史の皮肉とも言えるのだが、「諸行無常」の仏教的世界観が私たちの先祖を支配してきた。その時制主義の名残が『般若心経』への偏愛的な人気なのかも知れない。

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