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2019年01月25日09:45

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記憶の捏造とその検証:要約

 既に二度に分けて記憶の捏造と検証について述べた。そこに登場したのが抑圧された記憶(Repressed Memory)で、無意識下に押し込められた記憶のこと、あるいはそのような記憶が存在するという仮説のことだった。その記憶が意識できるように回復すれば、それは回復記憶(Recovered Memory)。記憶の一部があまりに辛く、生きてゆくのに極端に妨げとなる時、人はその記憶を抑圧することがある。このように述べると、誰もがフロイトを想起するだろう。実際、フロイトがそれを指摘して以来、人間が意図的に記憶を忘却することができるか否かに関して議論が続いてきた。
 「抑圧された記憶」の概念を最初に提唱したのはジークムント・フロイト。彼はこの記憶が性的虐待の記憶の堪え難い苦痛から生じ、その記憶は無意識の領域に追いやられ、それが意識に影響を与え続けると主張した。彼は『ヒステリーの病因について』(1896)で、女性のヒステリー患者は幼児期の性的虐待がトラウマとなって精神疾患を引き起こすという「誘惑理論」を公表した。彼は女性12人、男性6人の患者を診察し、一人の例外もなく幼児期に性的虐待を受けていた事実を突き止めていたが、その1年後前の説を変え、性的虐待はなく幼児性欲による幻想であると唱えた。既述の二回の話とダブるのではないか。
 その後のフロイト自身の説は前期と後期とで大きく異なる。前期はLibido(リビドー)を生命力と捉え、それを抑圧することによって症状が引き起こされるというもの。この段階でフロイトは「エディプスコンプレックス」の概念を提唱した。その後、フロイトは再び態度を変え、内在化された社会的な禁令(タブー)に目を向ける。1923年、フロイトは『自我とエス』を発表し、それまでの「意識」、「前意識」、「無意識」を否定し、新たなる「超自我」、「自我」、「エス」の局所論的観点を唱え、リビドーの抑圧が精神の不安を引き起こすのではなく、精神の不安が抑圧を引き起こすと自らの説を訂正する。
 一方で、彼は「対象リビドー」(性欲動)と「自我リビドー」(自己保存欲動、自我欲動)の当初の二元論に、Lebenstrieb(生の欲動、英訳はエロス)とTodestrieb(死の欲動、英訳タナトス)という概念を加えて提唱した。この概念は後に心的外傷後ストレス(PTSD)と呼ばれることになる外傷神経症の患者の悪夢の研究で考え出されたもので、フロイトの先見の明を見事に示している。この新たな二元論は、生命は非生命から生まれたものであるため、最終的には死を本能的に欲求しているという考えから来たものである。戦争体験といった外傷性の悪夢にはタナトスの概念が働いていて、何度も反復強迫的に過去の体験についての悪夢を見続けることは死を目指す欲動が働いている結果だと解釈される。
 ジュディス・ハーマンのTrauma and Recovery(1992年)などでは、フロイトが誘惑理論から退行したため心的外傷論も放棄したかのような解釈がなされるが、実際はフロイトはその後も心的外傷論の立場は崩していない。既述のように、アメリカで1980年代から1990年代にかけ回復記憶運動が起こった。それに対する反発が強まった1990年代初めに、被害者を支援する側からは「記憶は幻想」だと主張したとしてフロイトは加害者側の味方として非難された。その一方で、訴えられた側は抑圧された性的虐待の記憶が神経症の原因になるという誤った心的外傷論を打ち立てたとしてフロイトを被害者側の味方として非難する状況が作り出された。つまり、フロイトは被害者側から「記憶の幻想の主張」と、加害者側から「記憶の捏造の促進」と、二重の非難を浴びる結果となり、フロイトの評価は1990年代に一時失墜してしまった。だが、フロイトの仮説に対して科学的な検証がなされた訳ではなかった。
 抑圧された記憶は厳しい批判を受けた。特に1990年代にエリザベス・ロフタスらが回復記憶セラピーにおいて虚偽記憶が作り出されている可能性を指摘したことによって、このような記憶が本当に実在するのかどうか疑惑が起こった。睡眠療法などで回復したとされる記憶の中には悪魔的儀式による虐待の話など、信憑性が薄い記憶がたくさんも見られたのである。虚偽記憶の可能性のために、司法の場ではこの記憶は信憑性がないとみなされる場合が少なくなかった。

 上記のような話は現在に至るまで続いている。そこで、記憶の捏造に関わる言葉遣いとその背後の概念に関して、幾つか指摘しておこう。精神活動の即時的な効果を示すことのできる脳スキャンのような新たな技術は神経生理学の分野に大きな進歩をもたらした。それらのデータから生まれた説は心的外傷による海馬や扁桃体の変化に着目する。それによると、大脳新皮質において統合されないまま海馬や扁桃体に記憶が散在することが抑圧された記憶をつくり出す。また、この記憶は体性感覚に連動して働くとも言われる。これは「潜在記憶」と「顕在記憶」に関係する話であり、これが正しければ潜在記憶を言語化させることには意味があるということになる。この記憶は危険な場面にあった際、次に同じような場面に遭遇した際に生命を守る可能性を少しでも高めるための学習であり、危険な場面に遭った際、通常の判断に必要な長い時間を短縮するために、前頭前野が通常の複雑な脳の処理を極限まで省いてしまうのだと主張する。
 また、実際に心因性の健忘は虚偽記憶と同様によく起こることがわかっている。これは「抑圧された記憶」の名称で一般化され、日本でもそれを批判したロフタスの『抑圧された記憶の神話』(日本語訳は2000年出版)でよく知られている。だが、通常の心理学用語でいう「抑圧」は記憶に重点を置かず、衝動及び感情の抑圧を考えているため、記憶が抑制されるという意味の「抑圧された記憶」の概念とは異なっている。
 現在の脳科学や認知心理学の観点からすれば抑圧は「解離」の特殊な形式であると考えた方がよい。解離と抑圧は似たように扱われるが正確には異なる。解離とは既存の認知の枠組みに組み込まないために起こる現象であり、抑圧は当初は想起できても意識による著しい秘匿の支持によって生じる現象である。また、抑圧された記憶の考えはただ忘れるだけではなく、それを後に取り戻すことができるため、その意味でも抑圧された記憶の概念と解離性健忘の概念とは異なっている。
 また、「抑圧された記憶」は回復記憶療法で捏造された「虚偽記憶」の概念ともまた異なるため、それが偽りの記憶であっても「抑圧された記憶」が存在しないということにはならない。また逆に、「抑圧された記憶」が存在するからといって「虚偽記憶」が存在しない訳でもない。

 このような議論を辿ると、意識、夢、記憶、感情に関わる研究の特異的な一面が浮かび上がってくる。実証性がもつ複雑な側面の存在である。脳の構造、機能、意識の仕組み、行動の過程といったものが同じ「実証性」をもつわけではなく、実証性に異なるレベルと内容があることである。その点を背後に置いて、次に「自分史」と「自伝的記憶」のギャップについて考えてみることにしよう。

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