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2019年01月23日09:50

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記憶の捏造とその検証(2)

 1994年に出版されたエリザベス・ロフタス、キャサリン・ケッチャム共著The myth of repressed memory: false memories and allegation of sexual abuseには、記憶の捏造が詳しく検討されている。それは、人の記憶、特に子供時代の記憶とその検証に対する基本的な姿勢を理解する上での重要なヒントを与えてくれる。
 既述のようなエピソードはどれも、成人した男性や女性が人生で起こる問題を解決するためにセラピーに行くことによって起こっている。そして、どの話もセラピーによって「回復された」幼少期の性的虐待に関係していて、その記憶はセラピー以前は忘れられていたか、存在していなかったものである。そして、このような話は無惨に家族を引き裂くことになるだけでなく、第一級殺人で起訴されたり、禁固20年の宣告を受けたりする結果をもたらしたのである。ロフタスによれば、人間の記憶はビデオテープのような忠実な記録ではなく、むしろ脚本家のように、その時の信念や必然性に応じて、焦点を合わせ、選択し、脚色して過去を再構築して憶えたたものである。だから、偽の記憶を植え付けたり、存在しなかった人との会話や、起こらなかった出来事を思い出させることも不可能ではないのである。
 記憶は時がたつとともに徐々に薄れていき、その詳細や正確さも減少していく。そして、弱まっていく記憶は、その出来事が終わった後に当人が接する事実、概念、推論、意見などによって大きな影響を受ける。過去に起こった「出来事」が、後に変形されてしまう。それが記憶にとって普通のことだと結論するのは愉快なことではない。そこに、自分が何者であり、どうして今はこうなのかは、子供時代に戻り、そこで何があったかを探ることによって見つけることができるとセラピストが囁く。そこで前提されている機能不全家庭の神話は、ほとんどの者は不適切で毒のある子育てによって幼少期に深い傷を受けており、それが精神療法の神話の中では呪いとなって機能するのである。現在の不幸の原因を家庭の機能不全に見いだすことができなければ、より深く無意識を探り、抑圧された記憶にアクセスするように促される。記憶の「抑圧」という概念は、感情的に心が対応できないほどの出来事に対しての防衛の機能を想定している。 心は、辛い出来事やそれにまつわる感情を、数ヶ月、数年、数十年後に対応できるようになるまで意識から取り除き抑圧する。抑圧された記憶の神話を信奉する人たちは、このようにトラウマとなった記憶が意識の外に埋められていても、それと共に葬られた感情は、意識上に必ずや沁み出して来ると考える。だから、彼らは過去に戻ってその記憶を白日のもとに引きずり出す必要があるのだと主張し、それを患者に対して実行する。
 ロフタスは症例の中で、誤解された恐れのある性的虐待の主張に焦点を合わせる。性的虐待の「記憶」は厳密な意味では真実ではない可能性が高いのだが、真実ではなくても心のある本質を表現していると捉えることができる。それゆえ、彼はそれらを「嘘」と言うことを慎重に避けている。虐待の記憶があるという女性は、実際にはレイプ、拷問がなかったとしても、何か傷ついたことがあるに違いない。人生で実際に起きた出来事は、意識的信念の体系の中では説明できないけれど、彼らが幼少期に感じた「痛み」は、性的虐待や悪魔崇拝者の拷問などの心像によって感情的に腑に落ち、得心できるのである。「記憶」の中のファンタジー的な内容はかなり衝撃的ではあるが、想像した要素を本当の出来事の記憶の中に組み込むことはよくあることで、決して異常なことではない。事実ではないが、感情的には真実だと私たちが評価するものを、私たちの心の中にファンタジーの形として取り入れることは珍しいことではない。感情をファンタジー化するためには事実を捏造する必要が不可欠であり、その結果記憶が書き換えられることになる。
 臨床精神医学のジョージ・ガナウェイは、「もし、記憶が本当でなかったとしたら、それはどこからやってくるのか。どうして患者はそれを信じようとするのか」というロフタスの問いに対して、虚偽の記憶は基本的に二つの混交汚染の源があるとしている。一つは、本、新聞、雑誌の記事、説教や講義、映画、テレビなどの影響。もう一つの大きな汚染源は、患者が特別な関係でいたいと思っているセラピストなどの暗示や期待。患者は、そもそも、自分の問題を専門家に委ねることにした時点で、セラピストの承認を求め、暗示にかかりやすくなっているし、自らを特別な存在だと考えようとしている。これに対して、セラピストは気づかないうちにクライアントに記憶を植え付けてしまうことになる。「セラピーに来る人たちのほとんどが性的虐待を受けたことがある」、「記憶は、ビデオのように機能している」、「葬りさられたトラウマとなった経験を思い出して解決しなければ癒されない」などという信念のもとにセッションを行うセラピストの中には事実とフィクション、記録と記憶が混じり合って存在している。「しかし、患者はどうしてそんなに残酷で痛々しい記憶を自分の過去や自己の一部としたいのか。何が自分を犠牲者とし、愛する家族を残酷な人物として描く動因となっているのか」とロフタスは問う。ガナウェイは「患者は、幼少期に不満があったり無視されたという経験をしていて、自分が特別ではなく、たいしたことがなく、つまらない存在だったと感じている。そこに、声のトーンや、質問、言い回し、その信念を表現することによってセラピストが「記憶」を現実として埋め込んでいき、患者は暗示によってファンタジーの世界に逃げ込むことができる。セラピストが興味を示すような偽記憶の世界では、自分は特別な存在だと思えるからだ」と言う。
 ロフタスは、数多くの残酷な行為や不正の中で、なぜ近親相姦と幼児虐待の症候群が世紀末のアメリカ文化の中で注目を浴びたのか疑問を出す。ロフタスによれば、現実的な真実とメタファー的な真実は別々のものとして扱う必要がある。多くのセラピストが意味はシンボルや想像によってしか発見することができないと主張するように、セラピーが神話やメタファーを扱うのならば、それはメタファーを現実の再現としてではなく、シンボリックな表現として扱うのが分別ある態度である。セラピーによって過去に遡り、その意味を探ろうとするのならば、記憶は事実とフィクションが解けないほどに絡み合った創造的メカニズムをもつものであると認識し、そのように扱う必要がある。
 「私は誰なのか、真実とは何か、なぜ苦しむのか、私はどうしたらいいのか」、このような問いに対して、私たちはしばしば歴史に答えを求める。しかし、精神療法を手段として用いるのと同様、歴史を用いることにも同じような危険がある。個人の過去を不確かな地平に置いてしまう人間の記憶の可謬性、柔軟性は集合的な過去の話の中においてはさらに敷衍され、混合されるからである。
 過去を検証するには歴史の検証が不可欠となるが、過去は既になく、それゆえ、過去の記録や記憶に頼って検証しなければならない。記録装置は多様化し、しかもその信頼度は格段に高まっている。それでも、人は出来事を単なる記録だけでなく、それらを因果的な物語として理解してきた。その物語を支えてきたのが記憶であり、記憶に頼って生きるために、記憶にアクセスし、それを処理することが神話や伝説を生み出してきたように思われる。そして、それらに頼ることによって記憶の回復が治療として行われたことはある意味で納得できるのである。

 私たちは自らの記憶に頼って現在を生き、未来に立ち向かわなければならない。だが、その記憶は過去の事実の集まりではなく、脚色され、編集された物語である。その物語には感情、欲求によって変形された事柄、嘘や捏造をはじめ変幻自在な要素が数多く含まれており、時間と共に常に変化し、編集し直されている。変化しながらも、統一されたシステムとして人格の同一性と連続性を保つのもまた記憶なのである。それゆえ、記憶内容の検証は物理世界の出来事の検証のように単純にはいかないことになる。

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