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2019年01月19日06:49

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Ceci n’est pas une pipe

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 ルネ・マグリットの「イメージの裏切り」は1928−29年に制作され、油彩、キャンパス、63.5僉93.98僂如▲蹈汽鵐献Д襯后Εウンティ美術館に所蔵されている。パイプのイメージを裏切るような文が下に書かれており、それがCeci n’est pas une pipe(これはパイプではない)。だから、タイトルは平凡過ぎるほど平凡で、パイプを描いたイメージはパイプそのものではないという意味で、下に書かれた文はイメージの裏切りを表現していることになる。だが、これでは詰まらない、どこにもあるタイトル名になってしまう。このタイトルを「これはパイプではない」に変える方がずっと面白い。誰もがそう考えるのではないか。だから、哲学者ミシェル・フーコーも、自らの著書を『これはパイプではない』と名づけ、その主題にしたのではないか。
 人は「これはパイプではない」という文字列を見て、「これ」がパイプのことを指すと考える。しかし、その「これ(Ceci)」がパイプとして描かれた像であるのか、文字列そのものであるかも特定されているわけではない。指示代名詞が何を指すかは文脈がわからなければ、誰にもわからない。もちろん、パイプとして描かれた像もパイプそのものではなく、その意味では「Ceci n’est pas une pipe(これはパイプではない)」は実に曖昧な文なのである。このような言葉がもたらすイメージと、その裏切りをモチーフにした作品は、マグリット作品でしばしば見られるが、本作はその最も有名な代表作。
 マグリット自身は、「またあのパイプですか?もういいかげん、飽き飽きしました。でもまあ、いいでしょう。ところであなたは、このパイプに煙草を詰めることができますか。いえいえ、できないはずですよ。これはただの絵ですからね。もしここに「これはパイプである」と書いたとすれば、私は嘘をついたことになってしまいます。」と述べるが、「これはパイプでない」と書いても嘘になってしまう。マグリット自身は、ソシュール言語学を学んでおり、そのシニフィアン・シニフィエ概念から「言葉とイメージ」の問題を考えるようになり、このような作品が生まれることに繋がった。
 フランスの哲学者ミシェル・フーコーが1973年に刊行した著書が『これはパイプではない』。ルネ・マグリットのシリーズ作品が主題的に論じられ、それをもとに15世紀以降の西洋絵画を支配してきた二つの原理の存在が述べられている。第一原理は「言語記号と造形的要素を分離する原理」、第二原理は「類似と肯定(=断言)との等価性を定立する原理」である。マグリットはそうした西洋絵画の二つの原理を逆手にとって、「同質性という前提を確保することなしに、言語記号と造形的要素を結びあわせている」。フーコーはマグリットの作品分析スタートし、西洋の「表象」システムの分析へと移行している。このような手法はベラスケスの「ラス・メニーナス」を仔細に分析した主著『言葉と物』(1966)に似ている。
 こうなると少々アカデミックな話になり過ぎで、マグリットの提起している肝心の面白い問題が薄れてしまう。そこで、次のような幾つかの場合を考えて、奇妙さの印象を読者にそれぞれ確かめてもらいたい。

(1)「Ceci n’est pas une pipe」が絵の下に書かれておらず、右のマグリットのサインもない条件で、この絵のタイトルを「Ceci n’est pas une pipe」とするなら、現在の場合と比べ、いずれがより奇妙で、印象的か。
(2)「Ceci est une pipe(これはパイプである).」がパイプの絵の下に書かれている場合、どんな印象になるか(多分、冗長で退屈するだけだろう。)
(3)「Ceci n'est pas la image de une pipe(これはパイプの絵ではない).」がパイプの絵の下に書かれていたら、どのような印象を与えるだろうか。

 このような場合をさらに色々想像すると、A氏の肖像画の下に「これはA氏ではない」と書かれていて、タイトルが「A氏のイメージの裏切り」となっていたなら、マグリットを含め、人はどんな印象をもつだろうか。タイトルを「これはA氏ではなく、A氏の肖像である」と平凡に変更しても、極めて陳腐でしかない。結局、タイトルは「A氏の肖像」に落ち着くのではないか。

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