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2019年01月18日10:20

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命名の作法と自由

 自分の好きなように対象や出来事に命名するのが理想でも、対象や出来事を真に表現するにふさわしい名前が求められてきた。私たちは自分の子供に名前をつける時、その子が産まれた経緯や家系を中心には考えなくなっている。だが、それで自由に命名しているかというと決してそうではなく、様々なルールに拘束されている。ダリの「記憶の固執」に固執しながら議論してきたが、絵画作品と作品名の対応関係は古典音楽の作品と作品の関係とは随分と異なることを取り上げてみよう。
 クラシック音楽の曲名は、「交響曲第5番ハ短調作品67」などと呼ばれ、暗号みたいで覚えにくく、ますますクラシックを敬遠するような曲名、タイトルになっている。それでも、ベートーヴェンの「交響曲第5番ハ短調作品67」の副題が「運命」だとわかれば、妙に親近感が湧いてくる。また、全部の楽曲に、「革命」(ショパン)とか、「新世界より」(ドヴォルザーク)とか、印象深い「副題」があれば、随分と印象が違う。さらに、略称して「第九」で通じてしまうなら、より親近感が出てくる。「副題」には、作曲家が自ら表現上の意図をもってつけた「題名(タイトル)」や「標題(プログラム)」の他に、後に第三者が勝手につけた「通称(ニックネーム)」が定着したものもある。さらに、先の「第九」のような略称や、「未完成」(シューベルト、交響曲第7番ロ短調D759)のような作品の状態を表現したものなど、様々ある。
 副題によってすべての楽曲を知ることができない以上、本来の曲名をはっきりさせる必要がある。クラシック音楽の曲名は、「曲のジャンル」+「番号」+「調性」+「作品番号」(もしくは学術的整理番号)+(あれば)「副題」、から構成されている。例えば、「ベートーベン(作曲家の名前)交響曲(ジャンル)第9番(番号)ニ短調(調性)作品125(作品番号)合唱付き(副題)」、通称「第九」となる。詳しく見れば、次の通り。

(1)まず、正確に曲を識別するため、先頭に「作曲者の名前」を付ける。
(2)次は「曲のジャンル」で、記述の通りである。
(3)「番号」は、例えばベートーヴェンが作曲した交響曲のラインナップを示す番号。
(4)「調性」は、どの調(音階)の曲かを示し、その調によって、作品の雰囲気が変わるため、作曲家にとって重要である。
(5)「作品番号」は、楽譜の出版に際して付された番号で、いわゆる出版社のカタログ番号に該当する。「op.125」と示す場合や、楽曲がセットで出版される場合には、「作品56の6」のように、枝番がつけられる場合もある。
(6)作品番号が無いか、欠落している作曲家には、作品番号の代わりに、学術研究により付された「整理番号」が与えられている場合がある。モーツァルトのケッヘル番号(K.16など)や、バッハのBWV(バッハ作品主題目録番号)などが有名。
(7)そして最後に、既述の「副題」があれば、それをつけて、曲名が完成。

 音楽と違って、絵画・彫刻では「無題」は珍しくなく、その理由は概ねつぎのようなもの。1.作家が意図的に作品に題をつけなかった、2.作家が「無題」という題をつけた、3.作家は何らかの題をつけたが、題が何であるのかがわからない、4.作家が作品を完成させる前に何らかの理由で制作を中止するなどしたので題がない。一方、音楽の世界では、「無題」の歌謡曲やポップスはない。演劇や文学もそうで、美術作品だけが、何か命名に関して別世界にあるようである。タイトルも含めての作品である筈なのに、その作品を「無題」で終わらせるアーティストの意図は何なのか。
 美術で作品に「無題」とつけるようになったのは、1910年代のダダイズムあたりから。ダリもミロも、その他の画家も『無題』という作品を多く制作している。ダダイスムには、伝統的なアートの慣習破壊とともに、既成のものへの抵抗があり、タイトルを拒んだのもその一つと思われる。確かに、自動書記やコラージュ作品に具体的なタイトルはつけにくい。モンドリアンの抽象絵画作品「コンポジション2赤、青、黄」には不十分な説明がついている。大昔の洞窟や古墳の壁画のタイトルは意図的ではないが、意図的に「無題」というタイトルを最初につけた人は誰で、どんな意図があったのか。美術より詩やパフォーマンスの方が先行していたのかも知れない。当時はどこにも「無題」が流行していた。第一次世界大戦が勃発し、ロシア革命が起こり、ペストが大流行し、タンゴやルンバがアメリカから入ってきた1910年代という時代の中で、「無題」というタイトルは独特の意味をもっていた。これまでの芸術内容とは違ういった主張が「無題」や「作品」なのである。
 シュールレアリスムでは夢や無意識を扱う傾向が強まり、具体的な何かを表象しない作品につけるタイトルとして、「無題」も受け継がれていく。戦後「無題」はますます増える。作品が「何か」を表すのではなく、絵画という形式そのものを、更にはアートの「物体」としての存在を際立たせるようになり、「無題」もポピュラーになった。
 絵画や彫刻に何故タイトルが必要だと思われるのか。それは絵画や彫刻が「それだけではコミュニケーションプロトコルとして伝達可能性が低い」からという常識や価値観があるからではないか。中世のキリスト教美術の場合、表現されたものがそのまま聖書の内容を伝達していた。ルネサンス以降も肖像、風景、歴史、静物、寓意など、絵画や彫刻の意味内容は明確だった。つまり「コミュニケーションプロトコル」としての「伝達可能性」は高かった。そこに描かれている人や物や出来事の背景を読み解く最低限の知識は必要だったが、リアルな具象表現によって何が描かれているかは誰にもわかった。
 美術作品に作家自らタイトルをつけるのが一般化したのは19世紀後半で近代代会における狭義の「アート」が成立してから後のことである。それより前は、作家以外のパトロン、注文主、後世の人などがタイトルを決めていた。つまり、元来どんな美術作品も「無題」だったのである。タイトルは単に制作されたものを指示し、説明する名前でしかなかった。作品はそのタイトルを具現化したものだった。19世紀後半となれば、印象派の時代。印象派という名称の元となったモネの「印象・日の出」(1873)は、対象の忠実な再現ではない、作家個人の「印象」がそのまま描かれた、当時にしたらスケッチのような絵だった。単に「日の出」とか「ルアーブルの眺め」なら普通だが、「印象・日の出」は従来の基準からすると、絵画のタイトルらしくない。
 聖書や神話、寓意などのビジュアルな表現としての側面が薄れても、モネを初め19世紀後半のゴッホの絵画やロダンの彫刻は、まだタイトルからの再現性を保っていた。人々が絵画や彫刻はコミュニケーションプロトコルとして伝達可能性の低い表現だと感じるようになるのは、フォーヴィズムやキュビスム、そしてダダが登場した20世紀からである。音楽は本来抽象性の高い表現だが、絵画や彫刻は「対象の再現」という一大使命をもっていた。だが、それを写真に譲るという大転換があったのである。
 確かに言葉の持つ力は強い。制作した絵にタイトルをつけた方がわかりやすい。だが、自分が伝えたいことをタイトルによって伝えたくない場合、画家はタイトルから離れようとする。美術館に行くと、絵を見る前にまずタイトルを読んでいる人がよくいる。絵を一瞥してすぐタイトルを確かめ、納得したような顔をして、また絵を眺める。見たことのないものを目の前にして、具体的な言葉の説明がないと、人は何にでも命名する生きものだから、不安になる。そこにもってきてパッと見ただけではよくわからない作品に、「無題」とか「作品3−K」とかつけられていると、途方に暮れる。見ることから始まると言われても、無心に見ればいいと言われても、それがなかなかできないのが人なのである。
 ムンクの「叫び」も、そのタイトルが「夕焼け」と書かれていれば、納得してしまうだろう。私たちは作品をそれぞれ「自由」に鑑賞しているように見えて、言葉に依存している。美術は言葉を超えたところにある表現だと言われるが、作品を見て人は何らかの言語的操作を無意識のうちに実行するしかないのである。だから、「これは…のようだ」という印象を方向づけるために、タイトルが威力を発揮する。タイトルの意味は、「わかりやすさや検索性」だけではない。作品鑑賞を邪魔しない程度のラベリングと捉えている作家がいる一方で、タイトルの効果を考え抜く作家も当然いる。こうしたタイトルのつけ方が上手いのは、何といってもデュシャンの「泉」(1917)。「泉」はアングルの作品名だったが、デュシャンは男性用便器に変名でサインし、「泉」と名づけて出品した。ダダイストの面目躍如である。もう一つ思い浮かぶのは、マグリットの「イメージの裏切り」(1929)で、白い背景にパイプが描かれた作品。どう見てもそれはパイプにしか見えないのに、その下の余白に書かれているのは「Ceci n'est pas une pipe.(これはパイプではない)」。「無題」よりはこんな知的悪戯の方が、ずっと刺激的である。
 「泉」も「これはパイプではない」も、作品はタイトルを裏切っている。「伝えたいことがタイトルという手段で伝えられているとは言い難い。そこにあるのは、言葉と物、言葉と視線のずれとその込み入った関係。それを気づかせることによって、美術に対する私達の再認識を迫っている。デュシャンとマグリットは「タイトルと作品」という従来型の枠組みの中で、言葉と物の関係の見直しを迫ったのである。
 「見ること」には、言葉による概念化が避け難く紛れ込んでいる。タイトルがついていてもいなくても、私達は作品からさまざまな情報を勝手に読み取っている。その視線は知識や文化の影響を被っている。だから、経験にも観念にも知識にも影響されない「自由な」命名などあり得ないのである。

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(モンドリアン「コンポジション2 赤、青、黄」1930)

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(モネ「印象・日の出」1837)

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(デュシャン「泉」1917)

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(マグリット「イメージの裏切り」1929)

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