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2017年03月29日10:20

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「ぼんやり」、「曖昧」こそ人の本性を知るための鍵

 「ぼんやり知る、曖昧に知る」などと言うものなら、科学の世界では非難されこそすれ賞賛など一切なく、軽蔑しか浴びせられないだろう(例外はFuzzy logicで、これをもとに「曖昧さ」の工学的研究が進んだ)。というのも、日常的な常識(folk knowledge)の世界はいい加減で信頼できないのだという科学の側の主張は正しく、それに反対できない説得力も科学が持っていると大半の人が信じ込んでいるからである。だが、果たして本当にそうなのだろうか。それを鵜吞みにしていいのだろうか。それは科学オタクの勝手な言い分に過ぎないのではないのか。そんなことを考える人は少なくない筈である。科学的な知識(scientific knowledge)をそのまま信奉できない人の立場から答えを探ってみよう。
 「感じること」と「知ること」がきちんと分けられないのが私たち人間。「私はAを知って、Bを嫌い、そのBを憎んで、Cを知り、不安になる」ようなことが日常生活では当たり前に起こっている。知識と感情の交錯こそ生の生活であり、人生である。そんな中で私たちが分別ある科学オタクになれるのは、たとえ見かけに過ぎなくても最後は「きちんと知る」ことができるというこれまでの経験に裏付けされた実績と自信である。客観的な知識を手に入れることができるという信念は科学オタクでなくとも望むものだが、日常の常識の方は意外に消極的で、せいぜい間主観的な知識しか得られないと最初から決めつけているところがある。常識は案外臆病で小心なのかも知れない。科学と常識が対立し、争う理由など何もないのにである。これは常識側のコンプレックスの表明と見ることもできる。科学に楯突くことが常識ではなく、常識は未分化の知覚や感情を駆使して世界を知る発端、きっかけの重要な役割を担っていることを誇るべきなのである。科学的、合理的な知識はそのような常識から生まれ、より正確な知識ができ上がり、それがさらに新しい常識に変わっていくのである。

 私が『夜明け前』を読んだのは遥か昔で、今は歳のせいで夜明け前に目が覚める。夜が明ける前は幾ばくかの不安や期待を抱えながら朝の到来を待ち侘びるのが常だが、それに似て未知のものを明らかにしたい場合も不安と期待が交錯する。そこでは科学も常識も似た者同士のはずなのだが、科学と常識、観測や測定と感覚や知覚の関係は長い間対立するという視座からばかり捉えられてきた。対立すると思われながら、実際には科学と常識は適用される領域が分けられていて、それぞれの領域で存在してきた。これが二つの陣営の両立を許す政治的配慮であり、対立しながら両立するという気味が悪いと思われても仕方ない二大政党制をとってきた。
 常識は科学よりずっと長い歴史をもつ。常識の中味はその歴史を通じて変幻自在に姿を変えながら、ぼんやりした不安、曖昧な未知といった微妙な感情とも付き合ってきた。だが、それより派手で注目されたのは強い恐怖、激しい感情である。天変地異、人間関係は恐れや慄きに溢れている。それらの災難や悲劇への反応は激しい感情を引き起こし、厳しい対応や争いに明け暮れることになる。だから、不安や安心を含め、感情の比喩的表現、常識による対処は豊富な知恵に溢れている。未知の未来との接し方は、多くの語彙、偶像、儀礼、習慣等を通じて具体的に熟慮され、巧みに考案され、表現されてきた。そこには私たちの豊かな想像力を含む知恵が戦略的に配置され、その力が遺憾なく発揮されてきた。
 不安や安心といったマイルドな感情だけ考えても、例えば、吉兆、凶兆、予兆、兆しといった一般的な語彙と、それらをより具体的に表現する「流れ星、笹の花」等が使われてきた。占いもそんな例の一つである。星占いと天体の運行計算は似て非なるものであるが、それらを使って未来を予見し、行動するために同じような役割を演じてきた。いずれも社会の中では似た情報を提供してきたのである。
 知るための論争はしばしば感情の対立を誘発する。時代は随分違うが、ニュートンとライプニッツの論争、フィッシャーとライトの論争は単なる科学知識についての議論ではなく、二人の感情的な対立を引き起こした。いずれも感情的に対立した二人の間の論争だけでなく、他の平静な人たちの間での公平な論争に拡大されることによって、感情の対立を越えて新しい知識を供給することになった。このような学術的な論争に比べると、思想はずっと感情と結びついている。それがさらに政治や経済の思想となると、対立だけが鮮明になってくる。
 多くの具体例を通じて知識と感情の関係を多面的に捉えることができるが、似たような対立は知識と情報(information)の微妙な位置づけにも言える。文脈を度外視するなら、知識と情報の違いは見つからないのではないか。二つの違いが現れるのは文脈、状況、脈絡のためである。知識の文脈と情報の文脈の違い、要は使われ方が知識と情報の違いを生み出しているように思われる。理論の中での知識の位置と社会の中での情報の位置とは随分と違う。これまでの話から、ここでの情報とは常識とほぼ同じであることがわかるのではないか。

 ぼんやりしたものを明らかにすることにはデカルト、ニュートン、ライプニッツのいずれもが賛成すること。滅多に意見の一致がない彼らでも曖昧なものを明晰な知識にすることに賛成するだろう。
 不安や安心が知ることによって解消される場合、それらは知識と感情をつなぐものになっている。そのためか、「ぼんやり」の悪用、利用は昔から盛んで、この境界にあるのが歴史学、注釈、評論の類である。これらは研究対象、分析対象ではなく、実際に経験するものであり、データのはずなのに、いつの間にか研究そのもののような扱いを受けている。例えば、注釈。中学校や高校で古典作品の注釈を思い出してほしい。『源氏物語』を読んで理解し、味わいたいのに、その注釈を通じてそれを実行しなくてはいけない、そのための注釈なのだが、誰も注釈を学びたいとは思わないだろう。プラトンやアリストテレスの学説も注釈を通じて学ぶことになってきた。だが、注釈はデータ処理、データ解析であって、作品や学説ではない。上の言葉遣いからは注釈は情報なのであり、知識ではない。注釈とは知識や技芸を常識を使ってわかるようにした常識の知恵なのである。とはいえ、アリストテレスとその注釈家シンプリキオスの主張の違いとなると、はっきりしない。そのようなぼんやりした曖昧なものが知識と常識の間に横たわり、科学とは異なる独特の注釈学問(=注釈という知恵)を構成していた。

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