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2017年03月23日06:35

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不安と絶望と:キルケゴールの思想

 安全、安心の比較から、芥川龍之介の不安へと話が移り、今日はキルケゴール。芥川の短編を読んだ私が、暫くして読み出したのが『死に至る病』だった。本当のところ田舎の高校生にはまるで理解できない内容だった。キリスト教が何かも知らないのだから無理はない。今から思うと、滑稽なほどに何かを知りたいとだけ思いながら、何を知るべきか知らなかったのである。それでも、宗教や思想にも差別があることを感じ、キリスト者でない自分はどのように読んで理解すればいいのか訝った記憶が意外にはっきりと残っている。

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 キルケゴールは「人の本来的なあり方とはキリスト者としてのあり方である」と当然の如くに言い切る。キリスト教会のメンバーとして、単独で神と直接向き合うようなあり方が本来の人のあり方である。しかし、そのようなあり方の実現は簡単なことではなく、人が真のキリスト者になるためには強い意志による飛躍が必要となる。人はこの強い意志に従って飛躍することにより単独者となり、神と直接向き合うようになれるのである。
 人は生まれながらにキリスト者ではなく、キリスト者になるのである。つまり、自分自身を非キリスト者からキリスト者へと生成させるのである。だから、どんな人の生涯にもキリスト者でない時期がある。その時期にいる人の状態を、キルケゴールは罪と言う。人として生まれて来ながらキリスト者として生きようとしないこと、それが罪なのである。このように言い切られると、キリスト者でない人はみな罪人ということになり、罪人として死ぬことになる。現在の私たちなら、これを宗教的な差別主義と呼ぶのではないか。あるいは、宗教とは本来差別主義を前提にするものだと居直るのかも知れない。(だが、上記のキリスト者を仏教徒に言い換えても成り立つと思う仏教徒はいないのではないか。)
 罪の状態にある人は、不安をおぼえるようになる。つまり、罪が不安を生むのである。人として生まれながらキリスト者として自身を生成できないでいる状態は、その人にとって本来的な形から逸脱した状態である。その逸脱が不安の感情を呼び起こす。痛みが病気の治療を促すように、不安は心の平安への意思を呼び覚ます。心の平安をもたらすものは、キリスト者としての自覚しかありえない。それゆえ、人は不安に駆られることを契機として、キリスト者へと自己を生成させていくのである。
 だが、不安がキリスト者への生成につながらない場合がある。たとえばキリスト教国に生まれながら、なおかつ真のキリスト者になろうとしない人がいるとする。そのような人は、キリストの存在を理解していながら真のキリスト者になろうとしないのであるから、罪の度合いはずっと強くなる。そのような人にとって、罪は不安をもたらずばかりか、もっと強い状態、つまり絶望をもたらす。絶望とは不安より更に高度の罪の状態を指すのである。(これも今の世界では多くの人が認めない立場だろう。)
 このように、キルケゴールはキリスト者でない人の状態やキリスト者であろうとしない人の状態を取り上げ、それを罪の概念で説明しながら、その罪にともなう人間の状況を不安とか絶望といった概念で説明する。『不安の概念』、『死に至る病』はそういうキルケゴールの意図に基づいて書かれている。そのように捉えるならば、これらの著作は理解しやすくなる。
 『不安の概念』で扱われている罪は比較的程度の軽い罪。例えば、異教徒とか精神的に幼稚な人の罪。異教徒はもともとキリストの存在を知らないのだから、無知であり、したがって無責である。知らないものに責任は取れない。一方、キリスト教徒でありながら精神的に幼稚な人は、キリストの存在を知りながらその真の意味を知らない。彼がそれを知らないのは精神性に著しく欠けているからである。人間というものは精神的な生き物であるのだが、その精神性には程度があって、高い精神性から低い精神性、果ては無精神性まで様々な段階がある。無精神の人に至っては、キリスト教徒でありながら真のキリスト者となることができないのである。(これも別の意味での差別主義である。)
 だが、無知や無精神の人でも不安を覚えることはある。不安は真のキリスト者になるための一つの、しかし重大なチャンス。そこでキルケゴール独特の不安論が展開される。たとえば不安には客観的な不安と主観的な不安があるといったり、無精神の不安と弁証法的に規定された不安があるといったりする具合だ。その中で最も興味深いのは、不安の心理学的な説明に関わる部分である。
 不安は恐怖とは違うとキルケゴールは言う。恐怖には明確な対象がある。たとえば目の前に猛獣がいて今にも跳びかかってきそうな気配がある。その気配が私のなかに恐怖を呼び起こすのである。そのような明確な対象を持たない恐怖というものはない。明確な対象を持たない恐怖は幻覚と呼ばれる。
 不安にはそのような明確な対象がない。わたしは、どういうわけか理由を明らかにできないが、ただ何となく不安なのである。だが、人が不安になるのは、人には精神があるからである。無精神という言い方を上でしたが、それは比喩的表現で、人であればまったく精神を持たないということはありえない。だが、それにも程度がある。それに応じて不安の程度も違ってくる。「精神が少なければ少ないほど不安はそれだけ少ないものになる」(『不安の概念』原佑、飯島宗享訳)
 『死に至る病』で扱われている罪は、もっとずっと程度の重いもの。キリスト教徒の中には、自分がキリスト者としての真のあり方から逸脱していることを自覚しながら、しかも真のキリスト者になろうとせず、そのままの自分であることに固執する人がいる。そのような人の罪は計り知れないほど重い。そのような罪が引き起こすのは、不安といった生易しいものではなく、絶望である。
 絶望は精神の病だとキルケゴールは主張する。それだけでなく、もっと悪いことに、絶望は死に至る病なのだと言う。死に至る病といっても、最期には死が救いとなる病という意味ではない。絶望が死に至る病だというのは、死に向かって進みつつあるけれども永遠に死ぬことがない、そういう病である。つまり、「死という最後の希望さえも残されないほど希望を失っているということなのである」(『死に至る病』桝田啓三郎訳)
 だが、不安が心の平安を取り戻そうとする意思を掻き立てる場合があるように、絶望にも、真のキリスト者になるように人を転回させる場合がある。それは人間のうちに、永遠なものが存在しているからである。逆に言えば、「もし人間のうちに永遠なものがないとしたら、人間は決して絶望することはない」。絶望した人間は、「絶望して自己自身から抜け出そうと欲する」ことで、自分を裸にして神と直接向き合うきっかけをつかむことが出来る。したがって、絶望したからといって、その先には何の救いもないということではない。救いの手はいつでも差し伸べられる。それに向かって自己自身が飛躍すればよいのだ。

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 『死に至る病』は、1849年の刊行当時はアンティ=クリマクス(Anti-Climacus)という偽名で刊行された。出だしは新約聖書『ヨハネによる福音書』第11章4節で引用されている「この病は死に至らず」の話を紹介する文章から始まり、「死に至る病とは絶望である」と「絶望とは罪である」の二部で構成される。死に至らない病が希望に繋がる事に対して死に至る病は絶望であると述べ、絶望とは自己の喪失であると主張する。この自己の喪失は神との関係の喪失であり、そこから絶望は罪であることになる。その絶望は、本来の自己の姿を知らない無自覚の状態から始まり、更に絶望が深まると自覚的な絶望に至る。絶望が絶望を呼び、むしろ絶望の深化が「真の自己」に至る道であるとしている。第二部では絶望は罪であり、この病の治療としてキリスト教の信仰を挙げ、神の前に自己を捨てることが病の回復につながると説く。

 さて、芥川の自殺についてキルケゴールはどのように評価するだろうか。想像しかできないが、きっとその採点は辛いはずである。一方、芥川ならキルケゴールのキリスト者中心の実存思想に対してどのように批評するだろうか。芥川はキルケゴールについてどんな短編、評論を構想するだろうか。キルケゴールの思想は既に歴史的な価値しかないと思われがちだが、不安な精神状態の分析は今でも参考にされる場合がある(例えば、「不安の概念 itabashi 02/24 」)。

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