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2017年03月21日06:18

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安全と安心

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(豊洲新市場)

 東京では豊洲移転に関する話題が世間を賑わしているが、そこにはほとんどいつも「安全と安心」という言葉が対になって登場している。安心あるいは信頼は心理的、社会的な概念であるのに対し、安全は科学的な概念だと言われ、混同してはならないのに、それが混同されてきたなどと解説されている。では、二つの語感はどのように違うのか、確認してみたくなる。

安全であれば、安心できる
安心できれば、安全である

いずれが正しいかと問われると、大抵の人は一瞬まごつくのだが、衣食住に関しては一般には「安全」よりは「安心」の方がより厳格で、重要な概念だという思い込みが優勢なようである。つまり、

安心できれば、安全である
安全でも、安心できない

が正しいように思われている。「安全ならば、安心できる」というのでは吞気過ぎる、寛容過ぎるという訳である。
 ところで、「安全」の反対語は「危険」、「安心」の反対語は「不安、心配」だろう。では、危険と不安について上記と同じように考えてみると、どうなるのだろうか。

危険ならば、不安である
不安ならば、危険である

今度は「危険ならば、不安である」が正しく、「不安ならば、危険である」は大袈裟に騒ぎ過ぎる、過剰の反応だという印象を多くの人がもつ。安全の場合とは反対になり、随分と様子は異なってくる。
 信頼できる安全が安心、つまり、安全の中の安全が安心だと思っている人が多いのに対し、危険は不安の核心、つまり不安の中の不安が危険だと感じられているのである。この違いは何を意味しているのだろうか。単に私たちの心理的、主観的な気紛れに過ぎないのだろうか。もしそうなら、危険が不安の一部と捉えられているのと同じように、安全も安心の一部と捉えても何ら問題はないのではないか。すると、安全が満たされれば、即安心ということになる。つまり、上述のこととは違って、

安全であれば、安心できる

が正しいことになる。これは屁理屈ではなく、危険や不安を基本に考えることから出てくる当然の帰結である。そして、実存主義が登場する第二次大戦後のヨーロッパでは危険や不安を中心に議論がなされていたことも思い出しておこう。
 ところで、安全と危険の間にあるのは一体どのような領域だろうか。そのような中間地帯は存在せず、どんなものも安全か危険かのいずれかだろう。では、安心と不安の間の領域はあるのだろうか。安心もせず、不安ももたない気持ちは今の日本の日常生活の大半の状態ではないのだろうか。というのも、私たちは通常安心、不安という心的な状態を意識しておらず、忘れているからである。電車やバスに乗って安心や不安をいつもはっきりと感じている人はいるにしても、極めて少ないのではないか。安心でも不安でもない心的状態は存在し、それも一日の多くの時間私たちはそのような状態にある。これは「安全、危険」という科学化できる概念と「安心、不安」という心理的な意識とが違っていることの証拠の一つである。
 安全や危険の基準をつくることは可能であり、実際私たちの社会にはそのような尺度が数多く存在する。ところが、安心や不安となると、客観的な基準は存在しない。というのも、安心も不安も心理的な状態であり、その状態が尺度をもつかどうかも判明していないからである。「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」は誰もがもつ不安であると同時に、芥川龍之介にとっては自殺の動機だった。(自殺に憑りつかれた芥川の場合、「不安ならば、(自殺する)危険がある」状態で、上述の反例になっている。)
 それぞれの立場、文脈での安全、安心があり、それらは異なっている。科学的な安全でも条件を変えると安全の程度は変わってしまう。だが、安全は科学的な知識によって表現できる。一方、安心は「信頼できる情報として安全を受け入れること」によって得られる。だから、「信頼できる情報」が「安心」を考えるヒントになるだろう。

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