mixiユーザー(id:64329543)

2017年03月14日07:23

429 view

知の博物学:欲望と煩悩

 21世紀の今、知識と言えば科学的知識のことであり、その他の「知識」はかつてほどは重要視されなくなってきています。知恵がほとんど進歩しないのに対し、知識は日々進歩し、新しい情報が目白押しです。科学理論や科学技術は目まぐるしく変わりますが、宗教や道徳は変わることを嫌います。習慣は変化を拒むための工夫ですが、知識は習慣ではありません。でも、人の本性や心理、倫理や道徳は習慣として教えられ、変わり身のうまい知識とは馴染まないものをもっています。そんな話をしてみたいのですが、まずは欲望についての常識=博物学を考えてみましょう。私たちの心の内はまだ手探り状態のフロンティアーですが、例えば欲望についての科学知識は未だに僅かしかなく、私たちがもつ欲望像のほとんどは生活の中で生まれた常識であり、生活の知恵に基づくもので、習慣として受け継がれてきたものです。では、どのような習慣を半ば遺産として受け継いできたのでしょうか。

証拠(1)
 「本能は煩悩である。その煩悩の世界から解脱し、悟りをひらく」のが仏教の教えです。誰の心にも迷いがあります。仏教ではこれを「煩悩」と呼んできました。百八煩悩と言われるほどで、人の心はさまざまに迷います。なかでも、人の心を最も毒す代表的な煩悩が三つあります。それらは「貪欲(どんよく)」、「瞋恚(しんに)」、「愚痴(ぐち)」、略して「貪(とん)」、「瞋(じん)」、「痴(ち)」と言い、三毒と呼ばれています。
 「貪欲」とは、むさぼりの心であり、自分だけがうまいことをしようとする強欲な心です。人間の欲には五つあります。食欲、睡眠欲、性欲という本能的欲望のほかに、財欲、名誉欲です。これが五欲。こう書けば、食べることも、眠ることも、愛することも、みんな欲ということになります。「知足者富(たるをしるものはとむ)」という老子のことばがあります。「欲をかくのは、ほどほどにしろ。そうすれば心は豊かになり、ふところも豊かになる」という意味です。こういう心がけでいると、私利私欲はいつの間にか、「公利公欲」、つまり、社会のための利益を考えるということになります。これが「大欲(たいよく)」です。ここまでくると、仏道の目的である「煩悩かえって菩薩となる」という境地にまで到達できるのです。
 さて、次の「瞋恚(しんに)」は怒りの心です。「よく怒る人は、欲が深い」と言われ来ました。確かに、欲の深い人はわがままで怒りやすい。このように、貪と瞋は親戚です。「怒り」というのは、瞬間湯沸器のようにすぐカッとなることです。何かが心のカンにさわると、たちまち怒り出すのです。ところが、「瞋恚」の瞋(いか)りは、目を三角にして瞋ることであり、恚(いか)りは、恨みに恨んで恚ることです。したがって、「瞋恚」は、ねちねちと嫉妬心から瞋ることが多いのです。「生きかわり、死にかわり、たとえ地獄の果てまでも、この恨み晴らさずにおくものか」というのが、いちばん恐ろしい。
 最後は「愚痴(ぐち)」。自分の望みがかなえられないと、愚かな喧嘩をはじめる。それに負けると、こんどは愚痴をいう。貪欲や愚痴の心で世の中を生きていると、他の人が困ることがわからない。それでいて愚痴をいうから、救われないことになります。

*さて、仏教におけるこのような煩悩のもっともらしい分類は一見説得力がありそうに見えます。つい成程と思ってしまうのですが、分類の根拠も、分類から何が主張できるかも定かではありません。仏教は心理学ではありませんから、分類基準はどのような根拠なのか説明する必要などないのですが、尋ねてみたくなります。煩悩とその分類が博物学的な分類と同じのか、それとも異なるのか、断然知りたくなってきます。上述の説明など心理学が描くのに苦慮する煩悩を宗教的知恵で見事に描いていて、ついついブッダとその弟子たちの見事な知恵だと思い込みたくなるのは私だけではないと思います。

証拠(2)
 別の博物学的、宗教的な主張は「悟りとアルコール」です。典型的な類推による説明に過ぎないのですが、それなりに説得力があるのは一体なぜなのか考えさせられます。
 この世に生まれてくる誰も、基本的にアルコール依存症の状態。ですから、この世はアルコール依存症更生施設なのです。この世はアルコール依存症更生施設ですから、酒好きの人や、やめる気のない人から見たら、思いどおりにいかない極めて不自由な場所になります。逆に、自分はアルコール依存症という自覚があり、完治に向けて努力する人にとっては、心身を改善するための、実にありがたい場所となります。
 さて、既に述べた仏教的な「煩悩」を「アルコール」に置きかえてみましょう。私たち凡夫・衆生は日々その煩悩という名のアルコールを絶え間なく浴びるように飲み続けています。それに対して覚者・仏陀は煩悩(酒)を絶ち、体からスッキリとアルコールが抜けきった人ということになります。「煩悩=アルコールであり、凡夫や衆生=その煩悩に溺れて苦しむアルコール依存症の酔っぱらい、覚者・仏陀=そのアルコール依存症から回復した人、アルコールを断ち切った人」であり、この世の目的はアルコール依存症からの回復であり、この世はそのための更正施設なのです。
 では、アルコール(煩悩)をやめるにはどうすればいいのか。ビールだろうと日本酒だろうと、酒は酒、アルコールはアルコールであるように、怒り、憎しみだろうと嫉妬、傲慢だろうと、煩悩は煩悩です。アルコール依存症患者(凡夫)の中には「お酒がなくて人生は楽しいか」などと言う人がいますが、これはたわ言。完全にシラフで物事を正常に判断できる状態と、へべれけに酔って物事の判断もまともにできないほど泥酔している状態と、両方知った上で、つまり一度は悟って(アルコールを抜いて)その上でたまには酒を飲むことを選ぶというならまだしも、一度もシラフの状態も知らないアルコール依存症患者がこんな偉そうなことを言っても単に酒をやめられない自分自身の言い訳でしかありません。それに対して、酒をやめた人、アルコール(煩悩)の害を悟った人はきっと次のように感じるのです。「これまでさんざん酒で失敗してきたし、アルコール依存症で苦しんできたから、その酒をやめられて自分の心身の健康はもちろん、自分の経済状態やライフスタイル、人間関係もすべて悪循環を断ち切って健康的なものに変えられたんだから、こんなに清々しいことはない」と。

*これも面白い例え話ですが、煩悩とアルコールは目新しい比較ではなく、アルコールを飲むことは煩悩の一つに過ぎないことを確認しただけのことに過ぎません。アルコール以上に依存度の強い薬となると、こんな呑気な話では済まなくなります。病的な煩悩は個人のコントロールを越え、致命的な影響を心身の両方に及ぼすことになります。
 病的煩悩の一例に万引きをやめられない病気「クレプトマニア」があります。本人は万引きが悪いことだとわかっています。財布にお金が入っているのに、やめられない。罪悪感を感じていても、万引きへの衝動を抑えられません。この人は「クレプトマニア(窃盗症)」という病気。クレプトマニアは、経済的な余裕があるにもかかわらず窃盗を繰り返してしまいます。もともと、窃盗は再犯率が高い犯罪ですが、こうした通常の窃盗の再犯とクレプトマニアの間には、何か違いがあるのでしょうか。
 多くの場合、クレプトマニアは拒食症や過食症といった摂食障害に伴って発症します。たくさん食べて吐くことを繰り返す『過食嘔吐』の人が、クレプトマニアを発症しやすいようです。摂食障害は、ダイエットなどをきっかけに発症するケースが多く、クレプトマニアの患者も女性が大半を占めます。では、クレプトマニアと普通の窃盗は、どう違うのでしょうか。クレプトマニアが普通の窃盗と異なるのは、経済的な利益ではなく「盗むこと」それ自体を目的にしている点です。普通の窃盗は、経済的な理由で犯行に及ぶことがほとんど。でも、クレプトマニアは犯行に及ぶ際に快感や解放感を感じて盗みをはたらくのです。「盗みたい」という欲望が万引きの原因になっているのです。
 クレプトマニアは、窃盗に関して冷静な判断ができません。「万引きすればタダで物が手に入るけど、逮捕されたくないから、やめよう」といった判断ができず、罰を受けるとわかっていても、やめられません。ですから、クレプトマニアに刑罰を与えても、再犯防止にはつながりません。

証拠(3)
 では、煩悩はヨーロッパではどのように扱われてきたのでしょうか。まずはフロイト。彼の精神分析では、「本能」は「生理的要求」または「生理的な発動行動機構」のことです。「本能心理学」という、何でも「本能」があるという心理学説が昔ありました。例えば、「闘争本能」、「恋愛本能」、「蓄財本能」、「殺人本能」、「発明本能」とか…これらはすべて否定されました。
 無限にそのような本能があるのは奇妙でしかなく、基本的な生理的要求などが本能で、それに文化的な学習が加わって、様々な要求が生じると考えられます。多くの要求は、生理的本能が基礎にあって、その上に文化的に獲得された行動と解釈されるのです。生理的本能は「快楽・快さ」を求めるものだとして、人は「快楽本能」をもっていると考えるのが、フロイトの理論の基本です。
 人の心の中に快楽を求めてやまない本能的な「私」がいて、フロイトはこれを「エス・イッド(それ)」と名付けました。しかし、エスの快楽を求める要求は、無限に拡大され、反社会的、反道徳的、反倫理的なものさえ求めるので、これを抑制しないと、社会人として生きることは困難になります。自分の快楽のため、人からものを盗んだり、女性を強姦したり、殺人を犯したりすることは社会的に許されず、心の中にそのような反社会的行動を規制し抑圧するメカニズムがあるのだとフロイトは主張します。この「規制し、抑圧するメカニズム」が「超自我」です。快楽を無限に求める、反社会的ともいえるエスと、それを規制する超自我の間にあって、エスに従って、快楽を求めようとして、超自我に抑制され、社会的な行動を行う主体が、自我(エゴ)ということになります。人間の行動の色々な場面で、この快楽を求める反社会的なエスと、社会性を体現したような超自我のあいだで、自我の行動が決まってくるのです。
 上述したクレプトマニアとニーチェやキルケゴールを比較するとは何事かと非難されるのでしょうが、彼らの深淵な分析は意外に近いところにヒントが転がっているようです。それは何のことか見てみましょう。ニーチェは、「結局のところ、人間はおのれの欲望を愛して、欲望されたものを愛しているのではない。」と声高に主張します。フロイトも同じようなことを述べています。おのれの欲望を愛して、欲望されたものを愛さない場合、私たちはどうなるのでしょうか。答えは、欲望の充足が永遠に先延ばしになるのです。欲望されたものを愛した人は、その対象を手に入れた時に、欲望が満たされ満足して終わります。例えば、ある特定の希少な茶碗を愛した人は、その茶碗を手に入れると満足します。しかし、何かを求める自分の欲望自体を愛した人(例えば、クレプトマニア)は、決して満足することができません。
 キルケゴールは、自らの欲望を愛してしまった人物として、ローマの皇帝ネロとドンファンの心理分析をしています。ネロは権力欲を愛した人として、ドンファンは恋愛欲を愛した人として分析するのです。キルケゴールによれば、二人ともどうしようもない空虚感に行き着くのです。欲望を愛した場合、満足が先延ばしになるので、ガソリンを補給せずに眼前の蜃気楼を追いかけて走る車に似ています。満足感=ガソリンが補給されないので、走れば走るほど、燃料タンクは空になります。ガソリンが底をついても、走りたい欲望だけはさらに増し、苦しみだけが増すことになるのです。解決法は一つしかなく、走りたがっている自分を殺すこと。フロイトが言う「死の本能」とは、満足が先延ばしされ、心の空虚に耐えられなくなった人が、苦しみの原因である「欲望を欲望する自分自身」を消し去ろうとする衝動です。でも、死の本能こそ消し去らねばならないもののはずです。
 仏教では、おのれの欲望を愛することは「貪欲」でした。貪欲が罪とされるのは、満足の先延ばしが、空虚感を生み、自己破壊の衝動が自分を壊してしまうからだと思われます。逆に、「欲望されたものを愛する」ことは、愛と呼ばれます。愛は、明確な対象を持っています。したがって、それを手に入れた時は、大いに満足します。恋愛の場合、「貪欲」は「恋に恋する」状態となります。「愛」は特定の誰かを目標にします。成功の場合、「貪欲」は成功欲と呼ばれます。「愛」は夢やビジョンと呼ばれます。食事の場合は、「貪欲」は過食と呼ばれ、「愛」は好物と呼ばれることでしょう。貪欲は、制限がないので満足が先延ばしにされ、愛は、明確な制限をもつので満足に到達します。というわけで、欲望の倫理とは、「おのれの欲望を愛するのか、それとも欲望されたものを愛するのか」となるのです。
 ニーチェやキルケゴールは「欲望を欲する」ことに関心を寄せ、意味を与えようとするのですが、その姿勢には「何かを欲する」ことと「欲することを欲する」の間に格段の差があるように受け取られかねません。「何かを欲する」より「欲することを欲する」方がより哲学的に見えてしまうのですが、そんなことはなく、彼らが大袈裟に分けるだけのことです。万引き、アルコール、麻薬を考えてみれば十分で、そこに哲学的な違いを強調すべき点は何もありません。「何かを欲する」の「何か」が満たされればが欲望が解消されるというほど実際は単純ではなく、一度だけ欲するれば済む欲望から、何度欲しても満たされない欲望まで、その容態は千差万別で、簡単に二つに分類できるといったものではありません。常習的な習慣はいつも欲することを強要するため、彼らが考える「解消しない欲望=欲望を欲望する」は、病的な欲望にはむしろ当たり前のことなのです。麻薬を使うと満たされても、直にまた欲しくなる、そして、それは際限なく続き、習慣化し、病気と変わらなくなるのです。
 過食症における過食を考えてみましょう。過食は通常では考えられないほどの食べ物を、次々と口の中に詰め込むように摂取するのが特徴です。腹が破裂するかと思うほど満腹で痛くなってもまだ止められないのです。普通の人でも疲れたりイライラすると食べたくなりますが、これは脳が栄養を欲しているため。例えば、甘い物を食べると脳内の報酬系が刺激され、快楽をもたらし、ストレス解消になります。過食の際も、最初は気分がよくなりますが、実際はもう食べたくないのに食べるのを止められない苦痛に苛まれ、特に過食後は猛烈な自己嫌悪に陥ることが多いのです。強い嫌悪感や太ることへの恐怖心から、自分で食べた物を吐き出す自己誘発嘔吐(過食嘔吐)、下剤や浣腸、利尿剤の濫用による排出行為をするのも過食症の特徴です。
 このような過食と代償行動の繰り返しが、最低週1回以上、3カ月間ほど続く状態が過食症です。食べている間は頭が真っ白になって嫌なことを忘れられますが、食べた後に我に返って罪悪感に苛まれるのです。過食後の体重増加が怖いため、喉に指を入れて吐いたり、下剤などで排出しようとします。
 過食と排出行為は大きなストレスを生じ、これを解消するためにさらに過食を繰り返してしまうといった悪循環に陥ります。また、一度に大量の糖分や炭水化物を摂ることで血糖値が上がり、これを減らすために体内でインスリンを分泌して下げるといった状態が繰り返されると、インスリンの分泌調整がうまくいかなくなり、低血糖症になることもあります。低血糖症になると脳がエネルギーを欲して「食べろ」という指令を出し、空腹感や食欲が増強し、ますます過食が自分の意志ではやめられなくなるのです。

*過食症、アルコール依存症などは脳を含めた身体の変化がわかり始め、治療に生かされ出しています。そして、欲望、煩悩などの過去の分析や考察による知恵がそこに重ねられて、インターフェイスのような領域が日常生活の中だけでなく、臨床心理学や心療内科の中にも生まれています。知識と知恵が混じり合った状態は次第に知識の比重が増えていくと予想できます。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する