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2021年04月17日20:49

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父の蠱を幹す―中村真一郎『頼山陽とその時代』〈上〉再読(その2)

山陽の親友・篠崎小竹は「自分が単なる秀才に過ぎず、山陽の天才とは比べものにならないことを知っていたし、それを公言することもはばからなかった」ばかりか、「一生の間、山陽の友人であることを誇りともし、それを自分の存在理由ともしていた」ほどであった。その小竹の養父・篠崎三島は、頼春水の大阪時代の友人である。

山陽の編輯した『春水遺稿』別録の『師友志』を見ると、篠崎三島を回想するなかで、その養子・小竹にふれて「学識超勝、優レテ父ノ蠱(コ)ヲ幹ス。」と評している。果てさて「父の蠱を幹す」とは何を意味するのか、辞典を繰ると、〈「幹蠱(かんこ)」は、父がした仕事を受け継いでよく果たす。幹は、任にたえる意。蠱は、事の意〉とある。「春水は我が子山陽の不出来に比べて、出来のいい養子を迎えた三島を羨んでいるのである」が、あるいは「秀才」の才能は確かに見えても、「天才」の才能は理解の範疇を超えたと言えなくもない。

「その名声は江戸昌平黌の三博士に匹敵」し、「一代に鳴らした儒者」であった春水は、「謹厳、細心、老獪」な計略家でもあった。篠崎三島は春水、春風、杏坪の鮖扱残錣髻◆崕嫂紊六由僉⊇嬋は円く、杏坪は三角だ」と評した。著者は「山陽はこの父に反逆するために、父と正反対な性格に自己形成した、そうすることによって自由を獲得した」と捉えるのである。

詩人菅茶山の序を巻頭に掲げた『春水遺稿』は、十一巻中八巻にわたって五百首以上の詩を収録し、「この八巻を読み進めて行くと、頼春水という人物の一生が、パノラマのように展開して行くのが判るような仕組みになって」いるばかりか、別録三巻まで含めれば、「頼春水という人物の生きた姿を、統一的に再現してみせてくれた」というので、著者の「覗いて」みた詩の読み下し文を二、三ピックアップしたい。

「野性忽チ官ニ就キ、掣肘(セイチウ)何ゾ耐フベキ。独リコノ于役(ウエキ)アリ、還ツテ山水ノ愛ヲ恣(ホシイママ)ニス。」という書き出しの長詩。自由を妨げる掣肘は耐えがたく、君命で赴く故郷の山水を心ゆくまで愛でる。「吾レモト藝東ノ民、褐ヲ釈(ト)イテ、誤ツテ儒生。」と嘆く詩。田舎の一庶民の暮らしを捨てて、儒官に取り立てられたことを嘆く。――「いずれも春水のなかに生きていた『反春水』というべきもの。弟春風のように官に仕えずに、野に隠れて平穏な一生を過したかったという気持は、やはり微かな筋を彼の生涯のうえに残している」と、著者は春水の心の奥の微かな呟きに耳を傾けるのである。

一例をあげよう。「湖水、波タタズ、星彩澄ミ、帰舟一棹(トウ)、夜寒増ス。橋ヲ過ギテ識リ得タリ、城闉(ジヤウイン)ノ近キヲ。両岸ノ人声、市燈明ルシ。」――「星の光りの波のうえに澄んでいるあいだを、小舟に乗って城下に戻って来る途中で、今、舟が橋をくぐると、急に両岸の人声は賑やかになり、町の明りが華やいでくる。もう城門が近付いてきたのだ」と、春水は詠じた。この詩を取り上げて、著者は「春水の心の細かな襞が清朗な表現をとって現われていて、彼の詩人としての最良の部分がここにあることを想わせる」と賛辞を惜しまない。

そうしたなか、江戸から送られてきた諸名家の詩の寄せ書きを手にして、春水は「東都ニ別レテヨリ、未ダ十年ナラズシテ、詩家ハ繊巧、篇ヲ成スヲ競フ。」――「わずか十年のあいだに、文壇の風潮は変り、いわば藝術至上的、文化至上的な『繊巧』の詩風が生じていることが『諸名家』の詩から察せられて、彼はそれらの詩に、志を失って軽薄になろうとしている時代を感じて」嘆くのである。

「万里ノ迴瀾(クワイラン)ハ我ガ力ニアラズ。」だが、「風騒ハアニ風教ニ関ハラザランヤ。」――「天下の文運を左右すること」は力の及ぶところではないが、「文藝は思想教育と無関係ではない」とする春水は、「木鐸ハ君ニアリ、君、勉旃(ベンセン)セヨ。」と、江都の旧友、尾藤二洲、古賀精里の二博士に奮起を促しているのである。だが、この励ましの詩を読んだ古賀精里は、「迴瀾、望ムヲ休(ヤ)メヨ、病ヒ衰年」という体であった。

換言すれば、「新しい文化文政の、より文化的な、文藝の儒学からの独立を任務として自覚している世代が登場しつつある、という風に寛大な理解をする能力は、春水にはなかった」ということである。そのために、「次第に新しい世代の中心人物になって行こうとしている息子山陽」も単に「不肖の息子」「一個の不良青年」にしか見えなかった。とどのつまり「春水は続いて来る若い世代を理解出来なかったことにより、己の晩年を、より不幸にしていた」という著者の言葉は重い。

そして、春水の文集『学統弁』に書いた山陽の跋を見ると、「世或ヒハ襄(山陽)の家学ニ背キ、甚ダ洛閩(ラクビン、朱子学)ヲ信ゼザルヲ謂フ。襄曰ク、唯甚ダ信ズ。故ニ甚ダ信ゼザル所アリ。其ノ甚ダ信ゼザル所アルヲ以テ、其ノ甚ダ信ズル所ノ私ニアラザルヲ知ルベキナリ」と。著者をして言わしめれば、ディアレクティック(弁証法)によって、山陽は「朱子学を超越してしまっている」のである。

「父の蠱を幹す」は、先代の仕事を受け継ぐことであるとともに、〈一説に、蠱は虫の害、転じて、欠点・失敗の意で、父母の失敗を子がうまくつくろうことから、過失のある人の、才能のある子どもをいう〉(『新字源』)のであるとすれば、ある意味において、山陽は父・春水の事業を正し、革新した後継者と言えなくもない。親友の篠崎小竹が『春水遺稿』に寄せた「後序」に、「山陽が形式的には父の後を襲わなかったが、実質的には立派に父の志を継いだのである、と述べて大いに解嘲に力を尽している」のも由なしとしない。
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