薬局で「パワハラ自殺」提訴へ
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今この時も自殺を考えてしまうような暮らしを慢性的に送り続ける人は多いんだろうと思う。
この自殺によって亡くなった女性もある一つの職場のたった数人の中に居る自分が立たされた立場と関係性に閉じ込められて感性が広がりを忘れてしまった。そんな職場に長く勤めれば勤めるほど精神や思考は縮んでしまうんだろう。しかし、それは本当にそうなんだろうか。
自殺をするのではなく、活路を見出す。
それを出来る人は同じ境遇に立たされても自殺には至らない。
上司と話をする、喧嘩をする、やめて逃げる、愚痴をこぼす、趣味に走る。
自分の立場を客観的にとらえて思考的な息抜きが出来る心を創る。
真っ直ぐ仕事に向き合って弱点を明確に自覚して整理したり強化したりして実力をつける努力をする。
周りの人の暮らしぶりから考えてみる。
本を読む、芸術に触れる、精神世界に向き合う、人と話す。
走る、泳ぐ、旅に出る、よく寝る、ふて寝する。
、、、、、、、 。
追い詰められた状況の中で出来る工夫はたくさんある。この女性はそれをしないで自殺した。親や友人知人、関係者は、この自殺によって長く苦しむことになる。死んだ人だけが楽になり生きてやるべきだった何かはそのまま止まる。社会に暗い影を残す自殺という悲しいだけの出来事は罪なことだ。この女性は責められるべきだと言っても言い過ぎだとは思わない。やるべきことをせずに死に逃げるのは罪だ。
この職場で、この場合は薬局ということだけど、そこで自殺した女性に対してパワハラを繰り返してこの女性を追い詰めた人間がいるんだとは思う。それは間違いないことなんだろう。訴訟でそれを明確にすることも大切なのかもしれない。しかし、社会も一緒になってそのことに傾倒することは自殺の本質に向き合っているとは言えない。片手落ちだ。それどころか、自殺者と一緒になって世界を単純化して閉塞感を増すことにもつながっている。単純な思考は世界を狭くして追い詰められる状況の背景になる。社会がそんな風に単純化していくことが実は日本に自殺が多いことの遠因にもなっている気がする。
自殺者は被害者だと位置づけられて、原因を辿り誰かを加害者に認定するということで何かを納得しようとする傾向。裁判はいつもそのあたりのこと。一般市民が記事を読んで考えることもそのあたりのことが多いような気がする。
現代人は、活路を見出す、という考え方よりも、原因を特定して排除する、という考え方の方に傾倒しがちだ。ブラック何々、というような概念を社会的な通念として言葉に置き換えて流通させることで世論を殺虫剤の代わりに利用するのも一つの例。
それはそれでいい。しかし、もう片方で世界を広く見つめて広くとらえて自分に起きる出来事の中で狭い世界に追い詰められないように生きる方法についても考える社会にならなければ自殺者の割合を減らしていく社会にはならない気もする。
死んでしまったこの女性は何をするべきだったのか。そこも考える社会でないと。
自殺と言うのは悲しい出来事だけど、罪だと言わざるを得ない一面はある。
日本人はそう考えているんだろうか。ただのかわいそうな被害者だと思っている人が多いように思えていつもそのことは気になってしまう。そして実はそういう単純なだけの思考の傾向がブラックな何かに結び付いている気もする。自殺を廻る原因も結果ももしかしたら同じものが元なのかも。
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