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2020年02月22日12:26

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不立文字 再考

 「はじめにことばありき」というのは聖書(ヨハネによる福音書1章1−14節)の中の有名な一節だが、ここで言う「ことば」はギリシャ語の「ロゴス」の翻訳である。その「ロゴス」をコトバンクで引いてみると、「理性,言語,理法(法則),比例,定義などさまざまに訳されるギリシア語で,古代哲学,神学における重要な概念。 」となっている。単純に「ことば」と訳するだけでは十分ではないような気もするが、西洋人の発想として、この世界を規定するものとしての理性=言語というものがあるのだろう。その延長に永遠不滅の「イデア」というものがあると考えられる。だから、西洋哲学には言語に対する信仰のようなものがあって、「言語によってすべては表現出来る」と考えている向きがある。

 一方、仏教によれば、「世界は無常なるもの」である。固定的な実体というものはなく、つねに変化・流動している。あらゆるものは過程的であり完成ということがない。個物というものも単に比較的安定しているパターンという程度の意味しかない。川の流れの中にはよく渦が発生する。しかし、よくよく考えてみれば、渦というものの実態は存在しない。元の水は流れ去り、次から次へと流れてくる水が一定のパターンを繰り返すことで、そこに渦というものがあるかに見えるのである。そこに渦の本質というもの存在しない。これは人間についても言えることである。いろんな原子が複雑に絡み合い、偶然にたんぱく質というものができた。最初はアメーバーのようなものであったものが、おびただしい偶然の組み合わせが、一見組織だった繰り返しと淘汰により最後には人間となったと考えられる。しかし、人間と人間以外の境界は実は存在しない。そして、人間も多少複雑で組織立ってはいるが、基本的に水の中の渦と同様である、外部から栄養や空気を取り込み排出しながら一定のパターンを保っているだけである。「人間」の本質は存在しないのである。

 だから、仏教的世界観に立てば、言葉はその本質を持ちえない。言葉は必然的に抽象的であり、固定化を招く。だから、言語と無常的世界観つまり仏教的世界観とは一致しないのである。どのような命題も仏教的観点から見れば恣意的で偏ったものとなる。だから何事も言葉では断定できない。仏教でいう中庸の概念が極めて難しいのにもそういう理由があると考えられる。

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