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2020年01月28日12:16

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生と死の境界はあるか?

 一般には脳波が出ているかどうかが判断の基準になっている。つまり脳が停止したら死んでいると見做す。医学的な生死の境界はそのように定義されている。まあ、他人の生き死にについてはそれでいいとして、禅的哲学では他人事にはかかわらない、生と死の境についても自分のこととしてとらえなくてはならないのである。自分から見た自分の生死というものは一体いかなるものか?

 子供の頃、親せきの高校教師をしているおじさんに、「生きているって、どういうこと。死んだらどうなるの?」と訊ねたことがある。おじさんは「生きているというのは、こうしていることや。」と言う。ぼくは「こういうことってなんや?」と聞き返す。「つまりやな。お前がこうしてワイとしゃべっていることとか、カレーライスを食べて美味いとおもうこととか、勉強は面白いとかつまらんと思うこととか、とにかく全部や。全部が生きてるちゅうことや。」 

 もし、おじさんの言うことが正しいということであれば、麻酔中の私は生きていると言えるのだろうか? というのは、私は今までに全身麻酔を受けた経験が3度あるのだが、その経験から言えることは、麻酔をかけらるとその間の時間の経過が分からなくなるからだ。かけられた瞬間に意識を失い、その次の瞬間にはもうろうとした状態からだんだんと覚醒してくるのであるが、その時にはもう手術が終わっているのである。後で聞いてみると、手術には7時間もかかったというが、私にはたった数分間のできごとのようにしか思えない。この7時間というのは私は生きていなかったということなのだろうか? おじさんの「生きているというのは、こうしていることや。」という「こうしていること」がほぼなくなることを、私は麻酔を通して経験したのであるが、全く無くなった状態のことを思い出すことはできない。
 
 言いたいのは、おじさんの言う「こうしていること」には濃度または強度というものがあって、だんだんそれが希薄になりやがては全く無くなってしまう、一般的にはそれが「死」であると考えられているのではないかということである。だとしたら、生と死の間に明確な境界というものはあるのだろうか? 少なくともそれを認識することはできなさそうである。そして今生きている人は誰もそれを経験した人はいない。つまり、我々は自分の死というものを意識の希薄さの延長として把握しているだけである。自分の死そのものを直観できる人はいない。哲学として「死」そのものを語るにはそのことを十分わきまえておかなければならないと思う。
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