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2019年10月15日13:09

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意識とクォリア

 私は恋人と夕暮れの浜辺を歩いていた。私は「夕焼けがきれいだね。」と言う。彼女は「本当、とても赤くてきれい。」と答える。この時、私と彼女の間には「間主観性が成立している」と言う。間主観性とは、二人はお互いに同じ世界にいて、同じ月を見ていることをお互いに確信しあっている、ということである。
 
 この時私たちは、お互いに同等の意識を持っているという前提に立っているはずだ。その前提がなければ、私もこのような文章を他人様に読んでいただこうなどという動機も失せてしまう。永井均さんが「なぜ意識は存在しないのか」などという逆説的なタイトルの本を書くのも、実は、彼自身が他者には彼と同じような意識があると信じているからである。

 しかし、お互いに同等の意識を持っているという前提に立つと、それはそれで一つの難問が立ち上がる。本当にそれが「同等」の意識かどうかを確認する方法が言葉でしかないからである。すると、私と彼女は夕日をともに「赤い」と言うが、彼女が見ている夕日の色はもしかしたら私が「青い」と表現している色ではないか、という想定が成立する。

 そこでクォリアという概念が生まれてくる。私の意識の中に生じている「本当の」質感というような意味である。問題は、私のクォリアと彼女のクォリアが同じであるかどうかを検証する方法がないということである。夕陽を見ている彼女の視神経を、切断した私の視神経の脳に近い側に直接つないでみたらどうか? 眼と神経の構造はみんな同じだから、やはり赤い夕陽が見えるに違いない。というか、どのような手段を講じて、そしてどのように見えようとも、私が見る限りはあくまでそれは「私のクォリア」であって「彼女の」ではないということが決定的に重要である。

 ウィトゲンシュタインはクォリアについてなにかを述べるということはナンセンスであると主張する。「私の赤と彼女の赤は違う」という言葉が、どういう事態を指しているかを誰も理解することができない、と彼は言うのである。(哲学探究293節)

私と彼女は同じ夕陽を見て、「それは赤い」と確認しあった。確かにそれは言葉上だけのことであるが、逆に言えば、言葉としての「赤い」はもともとそういう意味なのである。(色覚異常でなければ)「夕日は誰にとっても赤い。」 それは間違いのないことである。
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