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2020年03月16日22:15

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相模原殺傷、植松被告に死刑

相模原殺傷、植松被告に死刑
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相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年7月、利用者ら19人を殺害し、26人を負傷させたとして殺人罪などに問われた元同園職員、植松聖(さとし)被告(30)に対して、横浜地裁(青沼潔裁判長)の裁判員裁判は16日、求刑通り死刑を言い渡した。青沼裁判長は19人もの命を奪った結果を「他の事例と比較できないほど甚だしく重大だ」と指摘。「酌量の余地はまったくなく、死刑をもって臨むほかない」と結論付けた。

 裁判長は主文宣告を後回しにし、判決理由を先に朗読した上で、最も厳しい判決を言い渡した。植松被告には刑事責任能力があると認め、弁護側の主張を退けた。

 公判では、被告の責任能力の有無と程度が裁判の争点となった。起訴後に被告を精神鑑定した医師は公判で、被告に大麻中毒や人格障害があるとした上で、大麻が事件に及ぼした影響はなかったか、あっても行動に影響しないほど小さかったと述べた。被告は障害者差別感情を膨らませて事件に及んだとされるものの、鑑定医は、被告が大麻を使っていなくても差別的な考えを維持しており、動機は正常な心理に基づいて形成されたと指摘していた。

 検察側は、被告が「意思疎通できない障害者は殺した方がいい」と考えた末に事件に及んだと指摘。鑑定医の証言も踏まえ、こうした被告の考えは病的な妄想ではなく、単なる特異な考えだと強調した。さらに事件は計画的で、襲撃時も刺す場所を冷静に判断していた様子などから、当時の被告には責任能力があったと主張した。その上で、被告に更生の可能性はなく「極刑以外に選択の余地はない」としていた。

 これに対して弁護側は、大麻を常用していた被告が事件の約1年前から車を暴走させたり、障害者を差別する発言を周囲にし始めたりするなど、それまでの被告とは一線を画した言動を取るように変化したと主張。事件当時は大麻の長期使用により慢性の精神障害を発症していたとみられ、心神喪失状態だったと訴えていた。

 被告は公判で「(自分には)責任能力がある」と述べて自らの弁護人の主張を否定し、判決の内容にかかわらず控訴しない考えを示していた。

 公判で被告は「皆様に申し訳ないと思う」と謝罪しながら、障害者に対する差別的な考えを繰り返した。遺族や被害者家族が見守る前でも、重度障害者について「無理心中や介護殺人、社会保障費など、多くの問題を引き起こすもとになっている」「意思疎通できない障害者は安楽死させるべきだ」などと特異な主張をしていた。【中村紬葵、国本愛】
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この事件に特に注目すべき点は何もない。少なくとも人類史において何か新しい視点は何ももたらさない。必要ない人は殺しても構わないなど、この犯罪を待つまでもなく、人類は何度も繰り返してきた。

アメリカに運ぶ奴隷たちがどのような姿勢で船に乗せられ、病気になったらどのように船から捨てられたかを聞いた事がある人ならば、この程度で驚きはしないだろう。

ある小さな島では猟銃をもった人が人間狩りをして、そこに住んでいた人を絶滅させたし、アメリカ大陸では天然痘患者が使っていた毛布をプレゼントして感謝される、そんな出鱈目な話ばかりがある。

いまさら障害者を殺したで何が目新しいものか。代理ミュンヒハウゼン症候群で患者を傷つける看護師もいるし、精神障害の患者を痛めつけている人など幾らでもいる。それと比べればこの犯人は愛をもって彼/彼女らに処したと主張するかも知れない。その正義を今も信じている知性に何を驚愕するというのか。大帝かよ。

この犯人の思想でさえ、人権という所から始まっている事に注目した方がいい。彼は彼なりに考えて、そういう人たちの命を奪う事が人道的であるという結論を得た。ネットの中の中傷だって似たようなものだろう。障碍者を韓国や中国に変えた途端に、うじゃうじゃ同様の意見が湧きたつはずである。

人間は敵を叩く時には正義なのである。自分の世界の外にあるものを破壊するのに躊躇はしないものである。彼は自分を伝道者のひとりと今でも信じているのではないか。その程度の思想に染まるくらい、オウム教の連中だってやった。彼はただ一人で悟りでも開いたのだろう。何が珍しいのかという話しである。

今日だって、君は役立たずの一言で職を失い、住所も失う人が幾らでもいる。学校ではテストの成績が悪ければ馬鹿にされ、既に学校カーストなる言葉が市民権を得ている。人を能力で判定してはいけない、など誰に言えるのか。

この裁判で興味深いのは弁護士たちである。「大麻の長期使用により慢性の精神障害を発症した故に無実」という主張。弁護側が一致団結しているなら、そういう主張も否定されるものではない。

しかし、当の被告から否定されている。つまり。弁護士は犯人の間に信頼関係を築けなかった。おそらく、どういう弁護をするかでの合意も取れていないはずだ。バラバラに、ただ裁判という形式を満足させるためだけに、彼らは弁護に邁進した。

おそらく犯人の意見、意図、気持ちが理解不能だったのだろう。それでも理解しようと会話を試みたものと思う。しかし、彼は狂っているようには見えなかった。だのに彼が語る言葉は、理解を範疇を超えていた。

弁護士たちは主張の正当性をどのようにしても構築できなかった。論理的にも心情的にも道徳的にも。この犯人はそんな風景をみて自分をキリストにでも例えただろうか。

それでも弁護しなければならない、だから全力を尽くす。この人、基地外なんです、恐ろしく気が狂ってます。面白い事例なので、どうか死刑などせずに、精神科の臨床として研究体として活用する方が絶対にいいです、本心ではそう言いたかったのかも知れない。

だが、そんな話が通ずるわけもなく、恐らくこの裁判に参加した全ての人が妥当だと思われる帰結に達した。これ以外の結審は考えられない。常識外なのは殺した人数でも、その行動原理でもあるまい。引き返す場所はたくさんあったはずなのに、なぜこの人は一度も振り返らずに行ってしまったのか、何が彼を捕らえていたのか。太陽がまぶしかったから、の理由の方がまだましではないか。

ナチスドイツの総統は裁判を受ける事なく自殺した。ポルポトは逮捕され毒殺された。妻と娘は「世間が何と言おうと、私達にとっては優しい夫であり、父でした」と語ったと小説のような談話を残した。スターリンは暗殺される事もなく人生を終えた。原子力政策で関西電力に圧力をかけた町長は、死後も新聞をにぎわしている。

殺した数が問題ではない。だが殺した数だって問題である。百万人を殺せば英雄であるとチャップリンが語る映画ではビジネスのため金品のために殺人を行った。それが今回はボランティアだっただけではないか。

多くの政治家や経営者が仕事ではなくボランティアを望んでいたのではないか。オリンピックなどボランティアを強要しなければ運営不可能な状況に陥ったではないか。人の善意に漬け込み、人の善意に金銭などいらないと社会を組み替えたのがこの国ではないか。なぜ殺人だけがボランティアにならないと信じたのか。

誰からも罰せられる事なく、恨みを買う事もなく、人を殺すのは簡単である。人類を滅ぼせばいい。そうすれば、最後の者は誰からも罰せらる事はない。誰も自分が住んでいる範囲外にいる人は殺せないのだから。彼の世界はどのような拡がりを持っていたのだろう。この国が銃を入手できる国だったら、この程度では済まなかったはずである。

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