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2019年02月21日10:50

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久しぶりに、facebookで投稿していることをミクシィでも投稿しようと思います♪

この世界の中にあるすべてのものは変化し続けます(無常性)。

この変化し続ける世界の中で、私たちが言葉と思考によって作り出した「相対的な知識のすべて」は、この一時的な世界の中で、現象の一時に見える仮の性質を表現しようとする試みにすぎません。

このため、変化する世界において自性(それ自身がもつ独自の性質を定義づけること)と呼べるものはなく、物質現象の中で、人が知覚できる範囲での「ある物質相」の一面を見ているだけにすぎません。

自性がなければ、他性(他自身)も定めることもできなくなります(無我性)。

人(素粒子の結合状態によって様々な相(特徴)が作り出される過程−原子−分子−化学物質−無機物・有機物−受精卵−細胞器官−組織構造−人体)について考えても、そのどれを「私」と呼ぶにしろ、様々な相(元素から質の違いと配分量が組み立てられ、様々な相が合成され、分離された相があるように見え、知覚される)があることがわかります。

私たちが知覚・認識していることは、ある相を執って言葉で仮設して、つねに一時的な現象の相に固定し考えてきた相対的知識にすぎない・・・

変化し続ける世界、それは「縁起」する世界であるにも関わらず、言葉によって作り出された論理世界は、特定かつ固定された事象があると考え、「そこに自性をもつ物質がある」と考えていることに、根本的な間違いがあります。

これら言葉が示すすべては、現象を説明するために設けられた「仮の名称=仮名」であり「仮設」「仮説」されたものなのです。仏教では、このことを「戯論(けろん)」と呼んでいます。

私たち自身に、名づけられた各個人の名前も、後付の名称にすぎず、その存在の全体性を説明するものではありません。

言葉は、その性質上、物質や現象を言葉で等価なものと考え、記号化した “仮の名称”にすぎないものです。これは、一時的な仮の固定点を定めることで、現象について説明しようとする人間の試みにすぎません。

言葉は、意味の上では、空っぽ(空)の状態から、現象の出現とともに、その時々の現象を説明しようとする「代替表象−象徴」としか呼べない性質があるということです。

言葉は、現象から離れています。また、現象の中にあり、外界と内界との境目である身体という境界において「感覚−知覚受容器およびフィルター」として機能する脳と神経系によって変換された『電気信号』を、物質現象として知覚し、それが脳内で自覚されたとき、そこに何かがある、という感覚が生み出されています。

ですから、抽象的知識(現象として顕現していない状態の知識)→現象→「身体(外界情報との接触)→感覚−知覚−感情→言葉→想念→行為→統覚された知識」という認識構造の流れから考えるとき、顕在・非顕在(顕在化されていないものを説明する言葉もない)から現象、身体で感じる現象を言葉にしたものは、事象や自性があると考えられているものとは、かなりかけ離れた説明ということにもなります。

したがって、言葉によって仮設され、論理づけられたすべての相対的知識は、私たちが信じているほど完全な知識と考えることはできない、ということです。

ですが、私たちがこの「空性」について考えることの意義は、今まで自分だと信じてきた状態によって作り出された “あらゆる苦しみ” の幻想性を見抜くことにあります(苦性・苦諦)。

ものごとの「空性」を見いだすことで、今まであると信じてきた自他についての根本認識が変容します。

そして、空(無)であり、すべてでもある、という私たちがもつ無力(力を顕現化しない無の状態−深い眠り、あるいは「有(目覚め・夢見)・無(深い眠り)」の概念世界を超越した「在る」)でありながらも、絶大な影響力をもっている存在としての私たちが、この不思議な世界の中に共存していると知ることになります。
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