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2020年01月26日10:09

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054 北区桶狭間 2/

平九郎 (ひとり残り)また、声が聞こえる…。俺を誘う声。アキイ、アキイ、アキイアキイアキイアキアキイアキイ…、百羽の鳥どもが口々にわめく。

鳥たち、ぼろ布のように谷を吹き回りつつ――、

鳥1 白きそらは一すぢごとにわが髪を引くこゝちにてせまり来りぬ
鳥2 わがあたまときどきわれにことなれるつめたき天を見しむることあり
鳥3 ものはみなさかだちをせよそらはかく曇りてわれの脳はいためる
鳥たち あゝつひに
ふたゝびわれにおとづれし
かの水いろの
そらのはためき
平九郎 (いつかの過去に戻り)なんて明るいんだ! 町の上の方が、一面に火の海だ! 焔が空を駆けまわって、軍太鼓が上から聞こえてくるぞ。盛りあがってくる! さ行こう。うしろを見るな――榎本先生、つまり自然が二重になるってのを、ご存知ですか? 太陽が南の空にじっとして、世界中が焔に包まれたようになったとき、おそろしい声がこの耳に聞こえてきたんでさ!――よし行こう! いろんなことがありうるんだ。人間てのは! なんだってありうるんだ。いい天気ですね、副総督どの。ご覧下さい、あの通りきれいな、動かない灰色の空、丸太ん棒をあのどまん中にぶちこんで、首をくくりたいような気持になりまさ、それというのもただ、そうだ、やっぱりそうだ、いやそうじゃない、などと考えあぐむからなんであります、中隊長どの、是であり非でもあるのか? 非あっての是か? 是あっての非か? こいつを自分はよく考えてみたいんです――
(また別の幻想に囚われ)――まるで沼の底だ。波は泥細工のように凍りついている。俺はここに立っていながらある疑問につまづく。一体俺は何者だろう? ここは熱いのか冷たいのか、俺は氷に閉じ込められるべきか、それとも腐って溶けるべきなのか。ある朝俺は目を覚まさないだろう。天井をミズスマシの航跡が円く走った。忘れるがいい友よ、俺は出征したのだ。いやそうだろうか? 出征したのは俺じゃなかったかも知れない。ああ、何もかもが曖昧だ。波かげに隠れてこちらを伺っている奴がいる。俺はこれから生まれるのだ。沼を避けることは無駄な努力だった。この谷底が俺に与えられた道だ。そして世界は沼の中にある。(飛びのいて)誰だ?
影(榎本) 世界が沼の中にあるならば、おまえはどうしてそこから抜け出すつもりなのだ。
平九郎 俺はまだ孕まれていない子供だ。答を期待する程度の妖怪か?
影 肉体と肉体とのはざまに眠りの時がある。だがおまえは特別な存在だ。その胸には未だに血と空気が通っている。この眠りは誰にでも訪れるものではない。おまえは選ばれたのだ。
平九郎 使命などは俺に似合わない。もしも立ったまま死ねるものならば俺は地面に頼らず逝くだろう。誰にも顔を見せたくはない。去れ。
影 預言者の言葉には耳を貸すものだ。おまえの残された生は将来現われる何者かのためによい香りを沼中に残すのだ。おまえは一人の個人として好きに生きてゆくが良い。さいころは秋空のように気紛れだ。偶然と必然との隠された契約がおまえを導いたのだと知るが良い。目覚めよ、そして礫(こいし)を拾え、それが『影なす谷』の黙示だ。
平九郎 (ひとり)右腕に左腕に泡立つ血液が震える。俺は誰をも憎んでいない。それなのに腕が誰かを斬りたがる。木の葉が光った(シュッと架空の剣で斬る)──真赤な月が出た(シュッ)──小人の呪文が聞える!(シュッ、シュッ)──俺の胸には内側に反った匕首。唇にこびりついて離れぬ笑い。孕まれもしないうちに俺はキナ臭い原罪を負っているのか。
影 転生せよ! そして礫(つぶて)を拾え。
平九郎 軍太鼓が近付いて来る。うつせみか? この耳だけが聞くならば、俺は俺だけの闘いを目の前にしようとしているのだ!
影 (面を取り)下れよ運命(さだめ)を、白き手の女のもとへ!(消える)
七厘 (女を連れ来て)お頭、連れてきましたぜ。
三太 すっすげえよ、みんなほんとに抜き身ですぜ。
平九郎 そうか。何人いる。
五助 そうさな、五〇、いや八〇。
三太 すぐにも合流してえや。昂ぶるぜ。
平九郎 行きたいか。
三太 へえ! ここが清水の舞台ってね。
五助 なんだ臆病風はどこ行きやがった。
三太 無聊せえなけりゃおいらが一番若えんだい!
五助 まあそうだな、ハハハ。
平九郎 (その頭越しに)イチ――。
イチ (かづきの下から)九郎様…。(だが口調が妙である)
七厘 ようし野郎ども。抜刀隊が動いたとあっちゃ百人力だ。ここに追っ手は来ねえかもな。寛永寺から聚楽台までびっしり埋め尽くして山から薩摩っぽを撃ち下ろしてやろうぜ。
三五 応!
七厘 飯能隊からは友成郷右衛門、土肥八十三郎、同庄五郎、升屋源造、鶴岡美臣ら八〇余名、別に神奈川隊二〇〇余名も向かってる。
三太 すげえ。
七厘 ここで我等が数日持ちこたえれば奥羽の列藩の援軍が間に合う。すれば退路なんど要らんかも知れねえ。
五助 やっぱり動く時には動くんだな。
七厘 そこでだ。大将。
平九郎 うん。この際だ。みんな上野に向かって構わん。もし負けが込んできたら伝令を飛ばせ。ここは数人の守りでよかろう。御坊、酒を。
七厘 えー、
平九郎 けちる時か。
七厘 へえへえ。(まず呷る)そらよ。
五助 (呑んで)かーっ、下戸には不味いや!(笑っている)
三太 (呑んで)呑む前からなんか俺、ふらふらだよう!
平九郎 (呑んで)皆の衆。達者でな。月も西山にかたぶくようだ。
皆 おかしら!
イチ お待ちよ。

間――。

平九郎 イチ。なぜいくさ場に来た。
イチ なぜ?(かづき、ハラリと落ち、銀髪が現れる。異様な笑い)なぜだろうねえ? ケラケラ。
平九郎 ど、どうしたのだそれは。
イチ 何がさ? これはあなたを思いすぎて変わり果てた私の姿。月光の凍てつく森で樹液すすって生き延びたの。
平九郎 七厘!
七厘 いや、いや、あっしゃあ存じやせん。尾高のだんさんから言伝てです、おイチの物狂いいかんともしがたく、もうどうにでも好きにしろと。
平九郎 イチ!
イチ あらどうしたの深刻なお顔。きれいなお顔が台無しよ。触れていい? 触れるわね。(と平九郎の鼻をいきなりひねる)
平九郎 い・た・た…!
一同 (どよめく)
平九郎 騒ぐな。
イチ 下衆のやからが! お前などの指図は受けません。何をくっついてくる? 離れなさい。臭いから離れなさい。
平九郎 臭いと…?
イチ 椅子を。椅子よ。
平九郎 (七厘に)…椅子だ。
七厘 (五助に)椅子だとよ。
五助 (三太に)椅子もってこい。
三太 (後ろに)椅子もってこいよ。あれ?(自分で取りに行く)
イチ ワインもね。
三太 ワイン?!(去る)
イチ (やがて)じろじろ見るんじゃありません。汚ならしいわね、おまえたち、それでも人間?(しかしまた唐突にケラケラ笑う)
五助 なんですねこのアマあ。姐さんよう。撥ねッ返るのも今のうちさ。出陣前のいい機会だ、どうやってヒーヒー言わせてやろうかね。綺麗なおべべをひっちゃぶいて、その白い背中に大槌どやしつけてやらあ。それとも三太の鎖で海ヘビみてえな痕目を刻んでやろうか。いくさ場が分からねえ嬢ちゃんには相応の仕置きがあるぜ。
イチ (届けられた椅子に座り)ケラケラ。下らない。仕置きならもう受けた。苦しみも絞り尽くして干涸らびたわ。
五助 甘ちゃんなことをほざくぜ。この逆捩じが教えてやらあ、人間はいっぺん墜ちだしたら底抜けなのさ。
七厘 まあ、ここは船長に任せとけ。そら、莨(たばこ)だ。
五助 け、あばずれが。(莨を嗅ぐ)
イチ あばずれね。ケラケラケラ。
平九郎 イチよ。なんと変わり果てたことか。いったいお前に何があった。俺が会津三峯と奔走する間、尾高と渋沢はお前を守らなかったのか。
イチ お前には関係のないことです。
平九郎 ああ、俺すら分からないのか。
イチ 近づかないで。(懐刀を出し)女なら手向かいしないと思ったら大間違いよ薩摩芋が。
平九郎 俺は薩摩ではない!
イチ 同じことさ。みいんな同じことなのさ。どいつもこいつも武家の誇り。そんならあたいだって一太刀返すよ。
平九郎 イチ! お前は武家の娘ではない。好きに生きていいのだ。
イチ 今さら! 勤王だ攘夷だとおもちゃを弄して、どれだけあたいを振り回したのさ。あんたに何の信念があるの。もう幕府もない宮様もない、新政府軍にはつばを吐いて、そうして秩父か、いずれ飛騨の奥にでも敗走するのが関の山よ。
七厘 なんだこいつまともも言う…。
イチ ああ、いやだいやだ、うんざりだ。山に入るなら炭焼いて、桑育てて、ばくろうでもすりゃ充分じゃないか。それをお前らさぶらいが世間を面倒に組み立てるんだ。返せよ。(突然の媚態で)返して下さい九郎様。
平九郎 痛々しい。
イチ 兄様。
平九郎 そうだ、お前はそう呼んだ。天王寺に幽閉された時だ。お前の機転で俺は獄吏の目を逃れ、こんにちこうしてここにいる。一歩見誤れば俺はもちろん通りすがりの女であったお前にも類が及ぶ。いや俺を助けた時点で逃れられない深みにはまったかと、奉公先からかっ攫うようにして俺はお前の手を引いたのだ。
イチ 知らん、知らん。
平九郎 知らんことはない! 俺を煽った娘がいたのだ。許嫁けがありながら俺は、たったひとりの娘を愛した。おイチよ! 二十歳の瞳に焔が宿り、反骨の血は滾りたてられたのだ。――ああこの白き手よ! お前の眼に、いま何故その火がない? あの熱ははやくも燃え尽くしたのか。
イチ (動揺し)国を倒すなど、思いもよらないわ…。
平九郎 国は倒れる。すでに倒れたと言ってもいいくらいだ。巨塔が海に倒れ込み、俺たちは波のあおりを食ってずぶ濡れになりながら笑うのだ。それが歴史だ。さぶらいに善悪などあるものか。ほんらい褌一本に抜き身で駆け抜けるのが倭だ。
イチ (激しく動揺し)お前は…誰です。恐ろしい男ね。
平九郎 何者でもない。ただ時代にこぼれ落ちただけの男です。こいつらと一緒さ。
イチ 名を聞きましょう。
平九郎 渋沢平九郎昌忠。田無振武軍、右軍頭取。さあ今度はあなたが名乗る番だ。忘れ果てた本来のあなたを思い出し、あなた自身に対して名乗る番だ。狂ったままにはしておかぬ。あなたの進む道は、まずあなた自身を思い出すことからのみ始まる。
イチ 無理よ…。思い出すなんて…。霧が出ている――。
平九郎 そう。ここは惑わしの谷だから――。
イチ 影なす谷――。
平九郎 残像の小径――。
イチ もやのかかったこの頭、もどかしい、自分の依って立つところが分からぬ。なぜあなたは私の名を?
平九郎 求めていたからです。国を超えていく女を。
イチ それがなぜ私なの。
平九郎 さてね。人面の鳥どもを見ましたか。
イチ ええ。
平九郎 奴らに呪われた者だけが、この谷間を抜けた先に行けるのです。思い出せませんか。
イチ 無理よ…。
平九郎 では、手伝おう。おイチ。この手刀をやいばと見立てたまえ…。
イチ なぜ…。(眼に妖しい光)
七厘 (割り込んで)おかしら…! やるんですかい?! こいつらには刺激が強すぎまさ。おっ死(ち)んじまいますぜ!
平九郎 ああ、そうだな。つい忘れていた。先に終わらせておこう。
七厘 (察して)…野郎ども! 傾聴だ。
平九郎 ――「眠れ!」(一喝)
三五たち (バタバタと倒れて眠る)
平九郎 眠ったまま聞け。――今日を限りで、我が隊は解散とする。俺は隊長の座を退き、代行として七厘僧都を据える。本体合流の際は右軍所属を名乗ってよろしい。敵は強いが、一里も飛ぶような大砲はない。切り込むのが武士の本念だ。俺は今しばらくここに残る。誰ひとり、残ることは許さん。分かったか。
三五たち (眠ったまま)おっと…承知だぁ…。
イチ あの男は何をいってるのです…?
七厘 これが魔法に憑かれた者のやり方でさ。
イチ 頭がおかしいんだわ…。
平九郎 では、それぞれの道をゆけ。御坊、銅鑼だ。
七厘 (銅鑼を鳴らす)
三五たち (夢見のまま起きあがり、人面の鳥に化したごとく、去ってゆく)
平九郎 外してくれ。
七厘 かしこまって候。(去る)

ふたり。

平九郎 しからば、ゆくぞ。(手刀を出す)
イチ (それを優しく持ち)
平九郎 どうした。
イチ (寄って、鋭く)お伝えしておきます。父御尾高勝五郎様、並びに大伯父渋沢宗助様。
平九郎 おお。飯能のさらに背後をお頼み申した。
イチ 三日前に飯能を発ち、信州境の草津に向かいました。
平九郎 なに?
イチ 腹心の喜助様、新五郎様もご同行でございます。上野の皆様方がよし敗走しましても決死隊の三峯参集はもはや叶いませぬゆえ、
平九郎 何を言っている!
イチ 九郎様。あの七厘というお坊様、あまり信じてはなりませぬぞ。
平九郎 天狗のイチ…。(離し)――いつから正気だ。
イチ ずっと…。魔法などございませんが、話を合わせて参りますね。
平九郎 なんという女だ、あなたは。
イチ 夢見の暇はありません。どうぞ、よしなに。(と一礼)
いちばんはじめはいちのみや、にはにっこうのとうしょうぐう、さんはさくらのこまじんじゃ、しーはしなののぜんこうじ、いつつはいずものおおやしろ、むーっつむらむらちんじゅさま…、
平九郎 (呆然と見送る)
イチ これほど心願かけたのに、イチの病は治らない、ごうごうごうと鳴る空は、イチと九郎の別れ辻、九郎がいくさに行く時は、なみだこらえるほととぎす…(消える)


3.

榎本 (「共振」のプラカードを支え)共振。どうですこれ、分かりますか。例えば琴の調弦をしますな。触れておらずとも隣の弦が震える勘どころがある。弦と弦とのあいだに何もないと考えちゃあいけません、目に見えない何かがある。謎のマターですな。わしらは、謎のマターに橋渡しされた空間で生きているのかも知れんですぞ。早い話が大黒屋光太夫、ベーリングに漂着した商船の連中がペテルブルクで見たあのサーカスですよ。トランポリンをご存知か。帆布をバネで張って田楽猿回しの芸をご覧じる曲芸です。あれがね、足腰のバネでうまーく帆布のバネを相殺すると、顔は動かず周りの世界だけが動くごとなる。やってみましょうか、ほれ、こうです。がこがこがこがこがこ、そして、止めようと思えばピシリと止まる。どうですかな、傀儡師の遣り手ですな。ここシベリアでもこの伝で、バネのある馬車を求めようと散々苦労しました。ところがあにはからんや、御者も馬車屋も、バネなんか物の役に立たん、どころか一晩で軸棒が折れて泥ぬたでひがな修理に手間取るのが関の山と申すのですな。ツンドラはただの泥道ですさ。しっくいだの石畳にするには百年からかかろう。夏になると凍土が融けて深さ三尺のぬかるみになる。しかも雪解けの氾濫ときた。チュメニからトムスクまで一五〇〇キロ、タイガの手前でブユと洪水とやくざな軸棒に煩わされて、神経の弱いやつならすぐと引っ返すような道程です。
駅の書記は私に次のような道を取れと勧めてくれた。自前の御者を雇ってまずヴィユンとかいうところへ行く(※その地名は現存しない)。それからクラースヌィ・ヤールへ行く。そこから小舟に乗って十二露里行くとドヴブローヴィノに出る。そこなら駅馬車が出るはずだと。なるほどその通りにしたら、アンドレイという百姓の家に連れて行かれた。彼は舟を待っている。「はあ、舟かね、舟はあるでさ。今朝がた早く議員さんとこの秘書をドゥブローヴィノ(そりゃどこだ)へ乗せていきましたんで、追っつけもどりましよ」。だがこれがいつになっても戻ってこない。「とんだ野郎に漕がせてやりましただ。まるで愚図な野郎で、風が怖くて舟が出せねえんだ。まあね、吹くことはもうえろう吹きますわい」。ぼろぼろの羅紗を着たはだしの馬鹿がひとり、ぐしょ濡れになって「ベ、バア。メ、マア」と叫んで歩いている。何とも侘しい光景だ。
昼過ぎになるとアンドレイのところへひどく太った百姓がやって来た。首などまるで牡牛のよう。でかい拳をしている。ピョートル・ペトローヴィチと名乗るそいつが「旦那はロシアからですか」「左様」「いっぺんも行ったことがないです。まんずここじゃトムスクへ行っただけでも世界を見たような自慢ですからな。新聞じゃもうじきここまで鉄道が敷けるそうですが、なんですね旦那、機械が蒸気でいごく――そこまでは分かりますが、村を通る時に百姓家を壊したり人を潰したりしませんかね」「鉄道は二本のレールの上を行くんだ、馬やトナカイみたいに横には逸れんよ」「ははあ、そんなもんでやすかねえ」。このでぶはトムスクどころかイルクーツクへもイルビートにすら行ったことがあり、トムスク止まりのアンドレイには一種鷹揚な態度で接していた。ピョートル・ペトローヴィチが言う。「旦那、あっしゃ思うんですが…シベリアの奴らは気の毒でさ。物資は郵便でどんどん来まさ、しかしね、無学がどうにもなりませんや。ジャガイモこさえて御者でもするほかにゃなにひとつできるこっちゃねえ。魚ひとつ取れねえんです。退屈な奴らでさ。あいつらといると際限なく太ってきます。智恵や魂の足しになる物なんざこれっぱかりもねえ。そりゃひとりひとりは善良です。ここはロシアですからね、みんなそれなりの人物で、気立てもいいし盗みをするじゃなし、喧嘩も大酒もしやしません、人というよりは金の延べ棒ですな。それでいて世の中のためになにかするなんてこたあなくて、一文の値打ちもなくくたばってくんです」。「働いて食べて着てさえいれば、その上何が要るんだね」「人はね? やっぱり、なんのために生きるかを知っていなきゃあいけやせんや」「そんなことはペテルブルグの人だって知らんよ」「そんなはずはねえ! 人間は馬車馬じゃありやせん。ありていに言や、シベリアには『道』ってもんがねえんです。人の道がなけりゃ充分に生き延びることもできやしねえ。早い話が俺がね、ここのアンドレイを咎もなく牢にぶちこんで、こいつの餓鬼らに物乞いさせることだってできる。道ってもんがねえからです。俺たちが生まれたことは帳簿に書いてあるきりで、イワンだセルゲイだ言っても狼と変わりはねえんでさ。それなのにこいつは額に三度十字を切りゃそれでもういい気でいるんだ。そんで五〇〇だか八〇〇だかのルーブルをため込んで、ため込み損でそこいらでくたばるんだ。こいつが人間でしょうかね」。メ、マア。ベ、バア。馬鹿がどこかで叫んでいる。シベリアの夜は長い。
翌朝。「神よ、祝福あれ。さあとも綱を解け!」船頭が表で叫んでいる。ろくでもない氾濫は見渡す限りを濁った沼にしているが、「漕げ、漕げ、みんな。話はあとでもできるぞお」舵取りが言う。もし小舟が転覆したらと私は小さくなっている。ブリヤートの女房がなにも言わすに乗っている。





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