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2020年01月26日10:05

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054 北区桶狭間 1/

北区桶狭間

これは戯曲連作「風土と存在」第五十四番目の試みである





時 一八六八年五月

場 王子、音無渓谷

人 イチ
三太
逆捩じの五助
七厘
渋沢平九郎
オランウータンあるいは榎本武揚
御者





1.

谷に、蜜柑が一個、ポツネンと置いてある。
二匹のオランウータンがそれを見つける。用心しつつ、取り合ったりなどし、結局は仲良く剥いて食べる。食べて、毛繕いなどしリラックスする。セリフはすべて「ウホッホホッホ」のみ。ウホッホホッホ言いながら何となくゆるいダンスになる。やがて次第にゆるい人語になり――

オランA 榎本さぁん、あなたは現在、いつごろの、あなたなのでしょうか?
オランB いつごろって、君、ぼくは現在のぼくですよ。
オランA じつは、現在、二〇二〇年でしてね、戊辰から一五〇年以上経つのですが…。
オランB ふうん…そいつは面白い…私としちゃ、明治十一年の夏のつもりなんだが…。
オランA 明治十一年というと、ロシアとトルコの戦争がロシア側の勝利に終わり…、
オランB そうそう。
オランA ロシア公使の任を終えたあなたは帰国にあたり、船ではなく、なんと陸路を選ばれた。
オランB そうさ。楽しそうだろう。大国とはいえ、恐れてばかりじゃいけない。
オランA でも一八七八年といったらまだ…シベリア鉄道の竣工は一九〇三年でしょう?
オランB 鉄道? 竣工どころか着工もしてないよ、シベリアに鉄道なんかまるでないさ、ペテルブルクから沿ヴォルガのニージニー・ノヴゴロドまでがせいぜいだ。やがて延伸するようだがね。
オランA すると(御者になり)そこからはずっと馬車ですか。
オランB 蒸気船と半々だね。チタの東でも黒竜江の河岸から気船に乗り、ウスリー川に折り返してハンカ湖から浦塩までは、また馬車さ。
オランA 容易じゃありませんな。全道程六十六日と。
オランB さあ、そのくらいだったかね…日記を見れば分かるが。
オランA その日記ですが、日記、書かれるようになったんですね。
オランB (にやりとして)そうさ、もう証拠の残る仕事をしてよくなったから。
オランA 品川沖の榎本艦隊から五稜郭、辰ノ口の監獄でもあなたは何も書き残されなかった。
オランB 最後はそりゃ囚人だからね、矢立も何も。
オランA 新撰組は恨んでますよ。
オランB ハハ…。
オランA 宮古湾も箱館も、やさ秩父のいくさに至るまでみんなあなたが糸を引いたと。
オランB 買い被りすぎだよ。
オランA 買い被る? 逆です。二〇二〇年の世界じゃ、土方歳三を知らん者はいなくても、榎本武揚など歴史書でもひっくり返さないと出てきません。
オランB そうなの? 新撰組ってのは、君、とてもそんな後世に名を残すような…、
オランA そんなもんですよ、人気なんてものは。あなたは官軍に寝返った変節漢として、世間の支持を失ったんです。
オランB 狭い日本に興味はないね。見たまえ、このシベリアの大地を。行けども尽きせぬ森林とオゼロを。
オランA (こだわって)それに…、厚岸に作ろうとなされた新・共和国ですが。
オランB ほう? あんなものが後世に残ったかね。
オランA いえ、それも歴史書の隅っこを楊枝でつつき出さなきゃ出てきやせん。
オランB なーんだ…。
オランA アッケウシイとは「ニレの皮を剥ぐところ」というアイヌ語です。木の皮で衣服や沓をこさえるんです。お分かりですか。
オランB 分かってる。
オランA あなたは未開の大地を開拓なさろうと思ったのかも知れないが、そこにはすでにアイヌがいたんです。
オランB 分かってるよ。コスモポリタンのつもりが蓋を開けてみたら帝国主義者だったというんだろう。確かにぼくも至らなかった。そこは大いに反省して、なんだかだ色々あったが今こうして幾多の部族の住むロシアを横断して、実地に彼らがどうなってるか見ていこうっていうわけさ。
オランA なるほど。でもこれは旅行ですよね。
オランB そうとも。
オランA 現地には現地の生活があります。
オランB 生活者の気持ちは旅行者には分からんてか。そりゃそうだ。(考えて)そりゃそうだが、じゃあどうすればいいんだい。住み着くしかないのかね。そこらの川のほとりですなどりでもして、ブリヤートの女と結婚して、そして今よりもっと無名のまま死んでいく…。
オランA 現地の者ならそれで不満はありやせん。
オランB アイヌが日本の蹂躙に抗し得ないように、モンゴルもエヴェンキもロシアに抗し得なくなるよ。それでいいの?
オランA それは…、
オランB 君ね。旅行者の知恵なんてしょせんは猿知恵さ。そんなことは当たり前なんだ。しかし猿知恵だって、ないよりましさ。ウホッホホッホ。
オランA それはそうですね。ウホッホホッホ。でも犬死にしていった勤王の志士たちは…、
オランB したかったんだよ彼らは、犬死にを。でなけりゃ君、ウホッホホッホ。
オランA なんです、
オランB 本当に国を立て直したかったんなら、百姓と組むはずだろ?
オランA そうか! ウホッホホッホ。あっちも猿知恵か。ウホッホホッホ。
オランB ウホッホホッホ。


2.

三太 真っ平だよ、もう真っ平だ!
五助 なんだ落ちつけよ、何が真っ平だってんだ?
三太 あの魔法野郎とつるむのは、もう真っ平だっていってんだよ。
五助 てめーで選んだ道じゃねえか。しかしおめーみてえな鉄砲玉は、まあ待ち伏せには向かねえやな。向かなくたってこいつぁ作戦だ、じりじりして待ちゃいいんだよ。
三太 待てるもんならさ! だけど見ろ、谷に蓋をしてもう三日だ。本当に官軍はここを通るのかい。そんなにうまく行くのかよ。
五助 じゃ、どーすんだよ。天板こじ開けて広い世界に出て行くか? 百姓の昔に逆戻りだぜ。
三太 飯能の蹶起まで何日だっけ。
五助 三日。
三太 (やがて)やっぱだめだ、そんなに待ったらおかしくなっちまう!
五助 おい大丈夫か、とっくにおかしいみたいだぜ?
三太 大きなお世話だよ。
五助 わめくなよ。どうしたいってんだ?
三太 待ってどうするんだ!
五助 あ?
三太 突っかいはずして官軍この谷に落っことしてよお、それで一路故郷に戻れるのか?
五助 いや、それはおめえ…。
三太 …女がいるんだよ、下田に。もう、四月(よつき)も帰ってねえ。
五助 里心か。よせよ、みっともねえ。野戦の月に女を思ったって、いいこたぁなーんもねえぜ? 無いものねだりが一等つけ込まれんだ。いいか、あの鳥どもがもし本当に人の夢を食って飛ぶんなら、おめーみてえなのは一番…。おい三太、奴らの貌が、そのいい娘の貌に見えるこたあねえのか?
三太 ばっ――、何をいいやがる!(間)
五助 黙りやがったな…。
三太 …静かだな。
五助 おめー以外はな。
三太 寝てるのかな、お頭は。
五助 もう、夜更けだしな。
声 (突然、どこかで)「そうだ、その銀の髪と眼だ。冷たく燃えあがる銀髪と、氷の瞳で、ここへ来いっ――!」
五助 寝言だな。今夜はあっちの藪でおねんねだ。
三太 ちぇ、夢の方がよほど生き生きしてやがる。見かけはグッタリ死んだみてえなのによう! おい五助ぇ、ちょっくら相談があるんだ。
五助 まーた、おめーの浅知恵か?
三太 聞けよ。
五助 ごめんだね。ひとりで妄想こいてな。
三太 聞くくらいいいじゃねえか。
五助 おめーのいい考えが、いい考えだった例しがねえや。知恵のねえ奴は汗を出せ、汗も出せねえぼんくらは、せめて辛抱ってことを覚えるん…、
三太 聞けよ!(胸ぐら取る)
五助 (怒って)ちんけな跳ねっかえりが…。(突き放しカケヤを振りあげ)来いよ、その青いケツをどやしつけてやらあ!
三太 (やや逃げ)相談てのはよう…耳を貸してくれ。
五助 誰もいねえよ。
三太 念には念だ。――話ってのは…(ひそひそと)簀巻きのことさ。
五助 (ドキッとし)なに?!
三太 だからよ、くくり上げて大川へドボンてことさ。…へへへ。
五助 (チラと藪の方を見て、それから相手をまじまじと見て)身の程を知らねえってのは、おめーのことだ…。本気でやれると思うのかよ?
三太 ひとりじゃ無理さ。だから話してるんじゃねえか。やるんなら例えば今だ。いったん夢に入っちまったら、やっこさん、鼻をつまんだって目を醒ますもんじゃねえ。寝込みを押し込んでカタつけるんだ。
五助 俺ぁ、ごめんだな…。
三太 なあ、聞けよ五助どん。温和しく着いていきゃあ、無事薩長をやっつけて凱旋できるって、これはそんな簡単ないくさなのかい? 平九郎さんはさ、もう、勝つ気はねえんじゃねえのかな。ここで死ぬつもりじゃねえのかな。どう思うよ、正直なところ?
五助 奴には勝てねえよ…。
三太 だからその話じゃねえってばよ! なあ、もう島を出て四月だ。季節はこれから夏だろう。上野がだめなら飯能で、飯能がだめでも北の果てまで、何しろ前には進めるんだ。そんな時に、戻ると思うか、あのお頭が? 俺はよ、白状するが、伊豆の青ヶ島の生まれなんだけど、アカコッコの卵を獲りにいって、まだ二年しか経たねえんだ。夏のはじめ、外輪山の崖の突端から海に向けて綱一本でぶら下げられてよ。びゅうびゅう風に煽られてよ。そいでも、一年のうち十月は時化っていうあの島で、俺の時だけはどういうわけかわざとみたいに若草色に晴れやがってよう、卵を懐ろに青い顔して崖上に這いあがってみたら、みんな髭面を崩して、キラキラの眼ぇして笑ってるんだ。「こんな見事な元服式は滅多にねえぜ、サンピンの三太」って、ばんばんでかい手で叩かれた…。――へっ。青いケツ、その通りだよ。せっかくそうやって迎えてくれた村を、たったひと冬でおん出て、船に乗っちまったんだから。なぜって…、あん時、ぶら下げられた綱から真っ逆さまに見えた海がよう、どうしたって、呼ぶんだもの。隠れ里みたいな青ヶ島の村に、外側があるのに気づいちまったんだもの。軽蔑するかい? そりゃ俺(おい)らぁ最低さ。だけど、だから分かるんだ。てえげえなことじゃ、お頭は引っ返さねえ。負けいくさだろうが今は進むことしか頭にねえんだ。未来ってやつが引っ張るんだよ。理屈とか意志とかじゃねえんだ、夢が肝っ玉をぐうっとつかんで、どうしようもなくあっち側へ持っていくんだ。分かるだろ。
五助 (やがて)俺は――、今度のいくさが済んだら、足を洗うつもりなんだ。釜石の山奥にひっそりと、黒菅っていう落人が集まる藩がある。藩士六百、伊達南部の大外様を見張る、小せえながらにゴリゴリの譜代よ。
三太 聞いたことある! 言い伝えじゃねえのか、本当にあるのか?!
五助 あるとも。素浪人が全員、のたれ死にするわけじゃねえんだぜ。国ざかいまで岩をよじ登って仙人峠を過ぎると、はるかはるか東の向こうに遠く、海が見えるんだ。俺の親父は庄五郎つって水もん改メっちゅう黒菅の出ばり役人だった。何だよその顔は、そう、ふかやいるかの水揚げを見張っておろしやへの裏金の起きねえようにすんのが親父の役目だ、外様が蓄財するとろくなことはねえからな。どんな因果か、鳥の子にトカゲの子が混じったって体(てい)で、俺らあ似ても似つかねえ。だが、女に酷(むご)いことだけは似ててなぁ、俺にも覚えがあるが、ある時ささいなことで親父の野郎、自分の腹のでけえ後添いを手ひどく引っぱたいて、泥道に放りだしたもんだ。ひでえことしやがるって、自分は棚に上げて腹が立ってな、奴のやり方は前からいいかげん腹にもすえかねてたんで、ついコウ、大槌でどやしつけちまった。それを期に庄五郎たあ縁を切って、俺は所払い同然にその後添いを引き取って、落人村に住まわせたんだ。こいつがまたねんねえでよ、林檎の世話で食っていけると思ってやがる。世間に揉まれたことがねえんだな。甘ちゃんではあるんだが、でも放ってはおけねえじゃねえか。だから俺はこんだ、手ぶらじゃ帰れねえんだ。
三太 だからって信用できる作戦なのかい、こいつが? 命あってのものだねだろうよ。
五助 …そうだな。(大槌構えて極め)死ぬのはちっとも惜しくはねえが。
三太 (鎖をぴしりと極め)待ってるいい子のための命さ。
五助 …おもしれえ。バカにしては上出来だ。
三太 (立ちあがり)じゃ、早速やろうぜ。
五助 ヌケサク! やっぱりバカはバカだな。
三太 うるせえな。
五助 ちっとは計画ってことをしろよ。平九郎をやっつけた。そこまではいいが、官軍だらけのこの江戸からどうやって逃げ出すんだ?
三太 …あ。
五助 だが待てよ、ふうん、いい思いつきがある。七厘を引っぱり込むんだ。
三太 あのなまぐさを? 乗るかな。あいつ頑固だぜ。
五助 そいつはこの逆捩じの五助さんに任せときな。誰にだって弱点はある。あいつは酒に汚ねえからな、ひとつ、酒瓶で張り倒してやろう。酔わしちまえばカンも鈍ろうぜ。それにどの道、奴に抵抗されたらこの計画はおじゃんだろう。
三太 そりゃそうだな。
五助 お、噂をすれば来やがった。
七厘 鞭聲粛粛夜過河〜。(僧形。歌いながら来る。酔っている)ようご両人、何をしとるのかね、いま時分。叛乱の相談か?
ふたり …ドッキーン!
三太 (ひそひそと)ものすごくカンがいいじゃねえかっ。心臓に悪いぜ。
五助 (ひそひそと)いや…いやいやいや、却って話が早いかも知れねえ。(七厘に)よ、よう! いい天気だな。
七厘 今にも泣きだしそうな夜空でござんす。で、今夜はどんな悪だくみを。
五助 滅相もねえ、誰の得にもなる話さ。ちょっと、その酒瓶を貸してみな。
七厘 (ブーと霧を吹き)やなこってさ。てめえの酒はてめえの扶持でお呑みなせえ。
五助 俺が下戸なのは知ってるだろ。魔法ごっこさ。そら、何でも吸いこむあやしの酒瓶にござい。いいから、ちょっと貸しなって。
七厘 フン、どいつもこいつも魔法かぶれか嘆かわしい。しからば。(渡す)
五助 天竺に伝わる不思議なお話。返辞をすると吸いこまれる妖しの酒瓶にござります。御用とお急ぎのない方は…、ところで、おい、三太。
三太 何だよ。うわーーーっ。(吸いこまれる)
五助 しゅうううーーーーーっ。ポン。
三太 何するんだ、おいふざけんな。おい!(閉じこめられてる)
五助 一丁あがり。ところで…七厘さんよ。
七厘 あい。(間)
五助 …あれ? 七厘!
七厘 だから何でござんす。
五助 おかしいな。五行山火炎寺の七厘僧都!
七厘 (溜息して、三太の耳元で)たわけっ。
三太 わああ…。(ひっくり返る)
ふたり おかしい。魔法が効かない。
七厘 どこが魔法だい。かぶれるのもてえげえにしなせえ。物見で起きてるんなら、異常は。
五助 いや、特には。
七厘 打ち物の用意。
三太 抜かりはねえけど、敵さんの気配もねえ。もう何日だ、これじゃいくら待ったって…、
七厘 ともかく、やることはおやんなせえ。隊には軍務ってもんがあるんで、分をわきまえねえと、勝てるもんも勝てなくなるぜ。
三太 こうして待ってりゃ、勝てるのかよ?
七厘 なに?――おとついの昼間、斥候を出して、上野いってえを検分してきやした。五行八卦によりゃあ三日後の蹶起は雹まじりの大雨になる。桶狭間の再来だァ。根津の藍染川が溢れたら戦局はどうあってもこっちに流れるしかねえって寸法でさ。わしらあ武力と頭数じゃあ劣るが智恵と土地勘で負けてねえ。奴ら東征総督府なんてぶち上げちゃァいても、ようは余所もんの有象無象だ。そこにわしらの勝機がある。でがしょ?
三太 …佐賀藩のアームストロング砲は一里も飛ぶっていうぜ。
七厘 なにを? おやサンピンの、臆病風ですかい。へっ、一里も飛ぶようなべらぼうな大筒があってたまるけえ。…ははあ、あんた方の悪だくみもてえげえ底が見えた。ちょっと来て、ここに座んなせえ。座れ! つまり、寝てる平九郎さんをふん縛って、せっかくのこの落とし穴、置いてずらかろうってのか。そうなんだな!
三太 (うなづく)
七厘 逆捩じの?
五助 (立ちんぼで)その通りだ…。
七厘 いいでしょう。仲間もいて、計画も一応あるんだろうって思っておく。それに、あんた方の心持ちが無理もねえのも分かる。失敗したらてめえら自身が後ろ手梟首だが、それでもやろうってえ気持ちだって分かる。分かるんですぜ? だがな、いっておくぜ。あんたらにゃあ、無理だ。
三太 無理? なにが。
七厘 うつわじゃねえ。
三太 なんだ、それ!
七厘 ガキには分からねえ。
三太 もう十六だ!
五助 坊さん、どういうことでえ? 俺たちが隊を率いるだの平さんを突き出すだのって話じゃねえんだぜ? ただ帰ろうってんだ。
七厘 あんたら、なんで隊に合流なさった。
三太 取り立てられてえ。
五助 徳川譜代の末席よお。
七厘 そうじゃねえ、なぜ、この隊に乗ってるんだ?…平九郎さんに惹かれたからだ、違うか。やつの魔法に引っ張られたんだ、そうだろう?
ふたり そりゃまあ、そうだ…。
七厘 でも、魔法なんてあるのか? そう考えたことはねえか。
五助 いや、ねえと思うよ。
七厘 ねえと思う? じゃ、さっきの酒瓶は。
五助 ありゃ、ええと、まあ余興さ。
七厘 ところがだ。逆捩じの、そいつを。
五助 これを?(酒瓶を向ける)
七厘 三太さん。
三太 何だい。うわわーーーっ。(また、吸いこまれる)
七厘 どう思う?
五助 (三太に)おい、もういいんだよ。
三太 (狭苦しく)いいって、どうすりゃいいんだよ!
五助 (異常さに気づき)どういうことだ…?
七厘 簡単な理屈さ。魔法は、ねえ。そんなものは、ねえんだ。だが人の心って奴ぁ、ねえものを信じることができる。いいか、ここがカナメですぜ。じっさいにゃホトケも魔物もありゃしねえが、なくったってお構いなしに信じてのけるのが人間ってもんだ。平九郎が手玉に取ってるのは魔法じゃなくて、あんたらの、まあ、信心なのさ。(こづいて)出てきなさいな。
三太 ふう…。(出てくる)
五助 信心だ? 黒菅に帝も伊勢も関係はねえ。御紋葵に尽くすだけよ。
七厘 だが、そんなあんたも、嵐がなくても海は怖え。
五助 坊主がさぶらいを愚弄するのか。
七厘 …武装を固める黒菅陣屋に、こともあれ伊勢大明神の護符が降ったとか。
五助 なぜそれを!
七厘 それ、信じてなさる。降りませんよ、そんなわけねえし、ゲンブツ見たわけでもありますめえ。だのに信じてる。つまりあんたは護符じゃなくて、ご自身の猜疑心に怯えてなさる。そいつがあんたの信心さ。
五助 絡み上戸が難しいこといいやがる。
七厘 とにかく、おめえらは心の底じゃあ、九郎さんを頼ってるんだ。勝つだ? 面と向かって立てすらしめえ。
三太 (頭にきて)聞いてりゃあとことんバカにしやがって。まずてめえから括ってやらあっ。
七厘 気をつけな。

七厘、懐から拳銃を突き出す。三五、あわてて手を上げる。

七厘 今、おめえらの心を捕らえたぜ。(厳かに)俺がこの短筒をぐるっと回すとおめえもぐるっと回る。(回す)
三太 (回る)
七厘 俺が銃身を振ると、おめえは自分でビンタする。(振る)
三太 (ビンタする)
七厘 そうしてビンタが止まらねえ。
三太 いて、いて、いて、(止まらない)
五助 (背後から迫っている)
七厘 捕らえたと言ったろう。(五助に)下を指差すと腰が抜けてへたりこむぜ。そおら。(指差す)
五助 あ…。(へたる)
七厘 やれやれ、あらかじめ説明したのにこの体たらくだ。…いいか、よっく聞けやい! あたしは魔法遣いでも何でもねえ。平さんだってそうだ。だが、魔法であろうとなかろうと、今のおめえらにゃ勝てっこねえのが分かるだろ。悪いようにはしねえから、黙ってすっこんでろい!
三太 (ビンタしながら)悔しいよ、逆捩じの。
五平 (立てずに)ああ。だがどうにも仕方がねえ。
七厘 (気配を感じて)隊長が起きたらしい。お出ましだ。おめえら、ここはいったん引っ込んどけよ。引っ込めねえ? 呆れた奴らだ。ひ・っ・こ・め!(足元に一発撃つ)
ふたり (飛び起きる)
三太 (引っ込みながら)悔しいよ、逆捩じの。
五助 ああ、だがここは退散だな…。(退場)
七厘 (ひとくさり鼻唄して)「時は幕末。ある山間の小さな村に、侍の墓が、四つ、並んだ。野心と功名に憑かれた狂気の時代に、まったく名利をかえりみず、あわれな百姓たちを差し置いて闘った、四人の侍の話。彼らは無名のまま風のように去った。しかし、彼らの愚かな心と、勇ましい行為は、今なおこの谷に語り伝えられてる。彼らこそ侍だ」――お目覚めですかい…。
平九郎 (登場し)夢を見た…。人の顔の鳥たちだ…。熱帯にいるような緑色の…。大挙して飛んできて、陣屋の物見に留まって、啼くんだ。アキイ、アキイ、アキイ、と啼くんだ…。
七厘 そいつは夢じゃありませんや。わっしら全員、見てまさあ。
平九郎 そうか? 俺も以前はよく見たものだ。近頃はすっかり、武蔵はただの武蔵だなあ。ワッチ(見張り)は?
七厘 いま交替したところでさ。
平九郎 榎本先生から遣わされた八卦見はなんと。
七厘 最後の決戦の日は雨ですと。いい感じでね。「襲い来るは薩長、幕藩体制が生んだ私怨の群れ。黒澤明が描く壮烈な叙事詩!」
平九郎 何?
七厘 いえなんでも。
平九郎 おそらく予測は外れまい。
七厘 予知夢ですか。
平九郎 勘だよ。経験則さ。
七厘 わっしも、何となくそんな気がしまさ。
平九郎 ふふ…。僧都、おまえとも長いな。
七厘 ほんにね。わっしの何がお気に召したのか知りやせんが、遣ってもらって助かりました。
平九郎 気の置けない志士たちも、ひとり減りふたり減り…。そろそろうちも、たたみ時だな。
七厘 隊長。お察ししまさあ。でもそいつは、帰ってからいいましょう。少ない手勢だ、割れちゃあなんねえ。
平九郎 うん。だが、弱気でいうんじゃないのだ。大事な話があるんだ。
七厘 (ひとり)南無大菩薩、今夜は大事な話ばっかりだ…。なんです、改まって。
平九郎 御坊。もうすぐこの上を、内密の一隊が通る。おそらく、振武軍の抜刀隊だ。
七厘 何ですって? 田無から?
平九郎 飯能で迎え撃つよりも、性急に期を見て上野に切り込むことにしたのだろう。それは構わん。俺たちが奇策なら大叔父も奇襲だ、大きに好きにするがいい。ただ気になることがある。ひとり、女の気配がする。ほかでもない、まずあれは天狗のイチだろう。
七厘 尾高のおイチさん! なぜそう思います。
平九郎 分かるのだ。
七厘 (痛快に)ははははは…! 勘ですかい、そうこなくっちゃいけねえ。平さん、やっぱりあんたがお頭でさあ! 俺たちゃ落とし穴支えて動けねえ、なるほどそうだが、いいんですか、これで隊士のかなりのとこぁここを離れて左軍に合流しますぜ?
平九郎 構わん。御坊、皆は好きに身を振ればいい。あいつだけ、七厘、ここに連れて来られるか?
七厘 (ろくに聞かず)何をいってるんです? 弱気になる歳でもありますめえ。まあいいでさ、すべては、コトを終えてからにしましょうや。みんなもその方が話を聞きますぜ。わっしもね。(叫ぶ)ほおおい、三太ぁ! 櫓に登れ、南を見張りな! きざしがあるんだ。猫の子一匹、見逃すんじゃねえぞ! 五助ぇ、ボヤボヤしてねえで、ふかみたいに寝こけてる穀潰しどもを全員、叩き起こしてこい! わっしは突っかいに逆茂木の具合を確かめてきまさ。隊長、やっぱりさぶらいはね、くすぶってちゃいけませんや!(退場)





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