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2021年06月13日06:21

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小津安二郎の言葉から、彼の本心に迫れるだろうか。“人生のエッセイ”とサブタイトルが付いた、「小津安二郎 僕はトウフ屋だからトウフしか作らない」(日本図書センター)を読んで。

2010年5月25日に第一刷を発行している、小津安二郎の発言や手紙などを集めた本です。本当なら小津安二郎全集あたりを全て読むのが“正しい”手法だと思いますが、できるだけ短期間で本質に手を伸ばしたいという邪念から、“小津安二郎のエッセイ・インタビューのうち、おもに人生をテーマにしたものを集め、一巻にまとめたものである”とあとがきにあるこの本を選びました。

全ての文言が初出の底本を明記して収録されています。基本的に“語り”口調なので、読みやすい。まずはタイトルとなった“僕はトウフ屋だからトウフしか作らない”が、いかにも小津安二郎らしい言い回しだと感じます。別のときには“納豆を作っている”とも表現しています。確かに晩年の小津作品を並べてみると、上質のトウフが次々と作られていたと思えてきます。

一方で、戦前にはキネマ旬報誌で、ベストワン作品を3年連続して選出されていますが、会社からは“批評家に受けても儲からない”と無視された話も面白い。“若いころは興行性と芸術性は相反するものだと考えていた”と述べています。その「映画界・小言幸兵衛」では、明確に“泥棒しても儲ければよいは困る!!”とも言い切っている。

「生れてはみたけれど」(1932年)がキネマ旬報のベストワンに選ばれたとき、松竹のある重役がキネマ旬報の田中三郎さん(と“さん”付けなので、そのまま引用します)に、“あの写真に第一位をやるのは困る。ぜんぜんお客が入らない作品だから、同じ表彰するなら衣笠君の「忠臣蔵」にやってくれと言ったそうです”とありました。資本の論理はすでにこのころから、当然のようにこう動いていたわけです。

そんな資本の論理に対して、小津安二郎は逆らう方向を取ることはありません。しかし自らが極めたドラマ作りの手法を展開し、入念な準備から脚本を用意し、1年に1作品という独自のペースを確立したのでした。“僕の作品は初稿が決定稿”という発言には驚きます。だからこそ、NHK用に書き下ろした「青春放課後」を、晩年の小津の諸作と並べて見たら、小津安二郎の“トウフ屋としての技量”が明確に伝わるのでした。

原節子を、“芸の幅ということからすれば狭い、しかし原さんは原さんの役柄があってそこで深い演技を示すという人なのだ”と述べ、“お世辞ぬきにして、日本の映画女優としては最高だと私は思っている”と述べています。これは「アサヒ芸能新聞」(徳間書店)の1951年9月9日発行が底本らしい。

小津安二郎のなかには、演技というものはかくあるべき、というものが確固としてあり、同時に、映画に文法はないと言い切っています。この文言集に接して僕は、物を書く人間には二通りあるという吉本隆明の言葉を思い出しました。それは“巨匠のように語る”か、“綿密に論を組み立てるか”の二種類だという。後者の代表がカール・マルクスであるとすると、前者は小津安二郎であるとして、とてもわかり易い例に思えます。

とはいえ、戦地からの手紙の部分については読んでいて苦しかった。生と死が一尺先で別れてしまうという現実を体験し、おれは死なないと自信を持って生き延びた小津と、戦地で再会した山中貞雄と、その僅かな時間が今生の別れになった事実。さらに、同時代を困苦窮乏生活を強いられた国民(僕の父や母を含む)という存在が浮かび上がり、あんな時代にはしたくないと強く思うのでした。

それにしても、60歳の誕生日に世を去り、今なら“まだまだこれから”という年齢で人生を終えた小津安二郎。僕はその年令を14年も上回っています。←当時の松竹の監督としては、それでも最年長だったらしい(吉田喜重の本による)。

ざっと読んだだけでも、いろいろと考えさせられる文言でした。さらにもっと読みこんで、名言をコレクションしておきたいと考えています。巨匠が精魂込めて作り上げたトウフです。僕は“このトウフ、おろそかには食わんぞ”と自分に言い聞かせて、諸作品を再見したいと、つくづく思いました。
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