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2020年04月08日03:59

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解決策が見えないままの社会問題を投げ出されても、僕は当惑するだけ。ラジ・リ監督「レ・ミゼラブル」(2019)。

なんでもラジ・リ監督本人が、かつてネットに投稿した画像がもとで有罪判決を受けたようです。自身がマリ連邦生まれで、この映画の舞台となったモンフェルメイユで暮らしたそうで、投稿した画像は警察官の暴行映像らしい。今回の映画はフィクションで、モンフェルメイユに異動してきた警官が、移民たちを取り締まる班に配属された初日から数日を追います。

BACと呼ばれる特別班はイスラム系の集団が住む街を担当し、街を牛耳るギャング一派と通じて治安を保っているのですが、イスラム教を信じる一派はそれとは別に“正しく”生きようとしてる、という展開です。モンフィルメイユが、ビクトル・ユゴーの「噫無情(ああむじょう)」の舞台となった街だそうで、貧困と暴力が渦巻く中での警官たちとの摩擦を生々しく描きます。

常に緊迫している街で、サーカス団からライオンの赤ちゃんが盗まれるというのが発端。その犯人の少年を逮捕しようとした特別班の警官が、ゴム弾を発砲して少年を傷つけます。新人警官のステファン(ダミアン・ボナール)は救急車を呼ぼうとしますが、たまたまドローンが現場を撮影していた。そこで班長のクリス(アレクシ・マナンティ)は、街を支配している一味に頼んで解決を図る。

異動したての新人ステファンは、署長(ジャンヌ・バリバール)から“警官にあるまじきことはしないように”と釘を刺されていたこともあり、まず少年を助けようとします。しかし現場を撮影された警官としては、映像を押さえることが先決です。その追っかけあいが、手持ちカメラで綴られます。

2017年の6月に、僕は「ディーパンの闘い」という作品を見て、その手法を“カメラの前2〜3メートルの世界しか観客に見せない”と評しました。今回もそれです。もっともドローン映像などは“引き”だし、ときおりフィックス撮影を見せるのですが、基本的にカメラの前で起こる諍いが連続する。これには疲れました。そして「ディーパンの闘い」には感じられた“正義への方向性”が、この作品にはないのが辛い。

結論として、“さあ、どうする?”という場面で映画が終わるわけです。そんな幕切れしかないフィクションは、僕としては嫌いです。事件の後、警官たちの日常がちらりと描かれ、それぞれもっともな雰囲気ではあります。それよりも、被害を受けた少年のほうが深刻なトラウマだろうが、と思っているとそのとおりになるのですが、それぞれ当場人物たちの“周辺2〜3メートルの世界”しか描かない。

半世紀前、僕が学生だった頃には、ある状況についてそれなりの分析があるのが当たり前でした。ときおり自分勝手な主人公が気ままに生きる姿を活写する映画もありましたが、その姿をありのままに投げ出すことはしません。ところが最近は、事情の分析なしで生々しいドラマだけを提出する作品が増えています。

ドキュメンタリーにもその手法が多くあり、たとえば“ノン・ナレーション”という形で事実のみを提出する。事情を知らない僕としては、いきなり“事実”をぶつけられても、とまどうことばかりなのです。作り手にとっては“事実をご覧ください”なのでしょうが、それは断片でしかなく、軽重判断がないあたり作り手の考え方を疑うことが多いのです。マイケル・ムーアへのアンチ・テーゼだとしたら、それは戦う相手を間違っていると言うほかありません。

この「レ・ミゼラブル」はフィクションですが、その考え方の典型に思えます。ラストにもっともらしくユゴーの言葉を引用し、“少年たちが悪いのではない。育てた人間が悪い”とのたまうのですが、僕には悪ガキ達の責任回避にしか思えません。もちろん、生き延びることが大命題な少年が、天下国家のあり方を見とおせるわけがない。だからといって、そんな生き方の人間を呈示するだけで問題が何か解決するのか?ということです。

この半世紀で、面倒な社会の仕組みなどを考えることなく楽な生き方を選ぶ手法が流行し(うまく乗せられただけです)、労働者がせっかく苦労して手に入れたさまざまな権利を手放す結果となったことを、僕は知っています。身の回り2〜3メートルにしか目が届かない人間が、目先の幸せのために“労働組合”を手離し、“自由”を得たつもりで孤立化することを選びました。その結果、今があります。

もちろん労働者を組織しきれなかった“組合運動”にも問題があるけれど、目先のわずかな自由と引き換えに手離した権利はあまりにも大きい。それなのに“育て方が悪い”と他人に責任転嫁するこの映画の考え方は、僕には納得できません。移民には移民の苦労があるということは確かでしょう。その苦労を、世界の大多数に通じる問題として明確化できない間は、獲得しようとしている“自由”など得られるはずがありません。周囲2〜3メートルの問題を、ドローンのように高みから鳥瞰して本質を語るべきだと僕は思う。

そして、大人たちの勝手な利益追求で虐げられている少年たちは、周囲にだけ目を奪われることなく本質を知ってほしいし、大人たちはそう仕向けるべきです。ユゴーの言う“育て方”は、まさにそれを指していると思う。実生活では、まずその日の生活でしょう。しかし映画というメディアにおいては、マクロな視点がまず必要だと僕は考えます。
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