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2020年01月26日03:45

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さすがに90年前の“名作”は、今の僕には“死んだ”も同然でした。ルネ・クレール監督「巴里の屋根の下」(1930)。

NHK−BSで放送したので見直しました。なぜなら“4Kリストア”版だから。以前に僕が見たバージョンは、“画面に雨がザザ降り”でした。そして音響も悪く、セリフが聞き取れない(フランス語だから聞き取れない、というのはまた別の話)。今回の修復版では、まず画質が格段に上がっていて、音響もかなりいい。とはいえトーキー初期の録音ですから、溝口作品の4Kリストアのようにはいきません。そんな意味でも“死んでいる”と感じたしだいです。

映画は冒頭、パリの街並みを眺めていたカメラが、街路で楽譜を売るために歌っている男と、それに聞き入ったり一緒に合唱する人々の群れへとビルの上から降りて行きます。このクレーンショットには驚きますね。ヒッチコックが「汚名」で見せたクレーン・ダウンは、この映画のいただきだったと言ってもいい。あるいは、「ウエスト・サイド物語」のオープニング・シーンは、このクレーン・ダウンを60年代の70ミリ映画風に翻案したものだとも言える。

ということで、トーキー初期にこういう作品が登場したら、そりゃ画期的だし衝撃だったでしょう。僕がシネラマ初の西部劇「西部開拓史」にぶったまげたのと同じ。しかし、そんな衝撃は21世紀も1/5過ぎた今では、“懐古趣味”ということだと思います。それを上回る作品が大量にあるのですから。←だから僕は「戦艦ポチョムキン」に歴史的な価値以外のものを感じない。

つまり「巴里の屋根の下」は、“オールトーキー”と宣伝されたようですが、無声映画部分が半分くらいあります。そこに音楽をかぶせているけど、いわゆる字幕カットが全くありません。だから僕は映画として“未完成”にしか思えませんでした。最近の映画に慣れてしまうと苦痛なのです。

たとえば、音楽が高まっている中、カメラが酒場の入口に近寄るとボイスオーバーのセリフが少しあり(後ろ姿でしゃべるからリップシンクなし)、顔を見せている俳優が扉を閉めて声が聞こえないという形にする。こんな姑息な“ハーフトーキー”作品はあかんやろ。ヒッチコックの「下宿人」は、まだもう少し一体感がありましたから。

それと、主人公のポーラ(ポーラ・イレリー)の心のうちがよう分からん。ギャングの元締めみたいな男に大事にされたいのか、それとも楽譜売りのアルベールに恋しているのか。そのあたりの気持ちの揺れ動きが、勝手気ままにしか思えません。僕はそのあたりで、この映画を投げ出してしまいました。

とは言うものの、とりあえず楽譜売りという仕事が面白いわけです。レコードが一般化しなかった時代には、楽譜を売っていた。そこから“印税”という発想が生まれたわけです。そういう歴史的な事柄を学ぶためには、古い映画は役に立ちます。

それと先ほど「ウエスト・サイド物語」との対比をしましたが、実は後半にナイフでの決闘シーンがあり、男がナイフをキラリと光らせます。ジェット団とシャーク団のランブル・シーンそのものだったわけで、そういう意味では“画期的”な映画であり、“歴史に残る”作品だったのでしょう。

とはいえ、そんなことを知っていても“意味”はありません。映画というものは、見ている観客の人生にどれだけ関与するかがポイント。エジソンの発明した初期の作品には、新発明という意味合い以上のものはないだろうし、リュミエール兄弟の実写に“人生を左右される”はずもありません(工場から出てくる人々の実写だし)。ことほどさように、映画は人間同様その時代と共に生き、そして死んでいくわけです。

そうは言っても、歴史を無視しようったってそれも無理な話。映画を作ろうとする、あるいは映画を語ろうとする人は、いちおう見ておいた方がいいでしょう。その場合はやはり、きちんとリストアされた“状態のいい”バージョンをどうぞ。

余談ですが、アルベールの友人役のエドモン・T・グレヴィルって後に監督になり、「狂った本能」や「激しい夜」という作品を作っているようです。僕と同世代の映画ファンなら、「テレビ名画座」で“お世話”になったでしょ(笑)。
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