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2019年11月20日11:31

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映画を作る場合の“倫理”にまで踏み込みたくなる悪人像。ルトガー・ハウアー追悼で見たロバート・ハーモン監督「ヒッチャー」(1986)。

まずお断りしておきますと、社会における倫理というものは我々が決めたものではありません。僕の世代が決めたわけでもないし、祖父母の時代に決まったわけでもない。倫理観というものは、世の中が決めてきたと考えます。つまり、世の中を支配する連中が長年作り上げてきたということです。ということで、その倫理に反する内容の映画を作ることは自由ですし、社会を覆そうとして倫理を無視するのも自由です。それをふまえて、この映画を見ましょう。

「ヒッチャー」は、陸送業務の青年ジム(C・トーマス・ハウエル)がルート66をカリフォルニアに向かって走っている場面から始まります。長旅の疲れでジムは居眠り運転してしまい、道路をはみだして車を止めてしまう。幸い事故にはなりませんが、危うかった。そこへ雨が降り始め、しばらく行くとヒッチハイカーがいる。いったん通り過ぎようとしますが、眠気覚ましになるかと乗せてしまう。このヒッチャーがとんでもない悪党だった、という展開です。

僕は今回初めてこの映画を見たわけですが、いつもこの勉強会には何らかの資料を作っていくことにしています。今回も、ネットで拾った吉本隆明のこの映画に関する文章を載せ、余ったところにいつものトリビアを幾つか書いておいたわけです。

そのトリビアによると、C・トーマス・ハウエルは、撮影中本気でルトガー・ハウアーに恐怖を感じていたとあります。“とくにある場面で、ハウアーがハウエルの目の近くにナイフを持ってきたときに恐怖を感じた。それは台本になく、ハウアーの即興だったからだ”そうです。←映画を見もしないでこんな訳文を作っちゃいけませんね。反省してます。

どういう意味かというと、青年ジムは通り一遍の恐怖心しか表現していないし、いくらハウアーがコワモテでも、撮影中に相手役を傷つけるはずがない。つまりこのトリビアは、宣伝用の“作り”だったわけです。それが証拠に、ジェニファー・ジェイソン・リーがこの役を引き受けた理由を“この役には《人間》が描かれていたから”とあったわけで、このナッシュ役のどこが人間的なのか、映画を見れば宣伝用の文言だと一目瞭然でした。

というようなスリラー映画を見て、倫理に対する考察というものは大げさだとお感じになるでしょう。この映画の後、日本のアクション映画で“悪人がなかなかくたばらない”作品が続出したそうで、それについては娯楽の範疇でOKでいいと思います。しかし僕は、この「ヒッチャー」におけるルトガー・ハウアーの悪人像は倫理規定違反だと思う。

先ほども書いたように、倫理規定というものは社会を牛耳っている側の論理です。それをそんな位置にいない僕が云々するのは、そもそもおかしいといえます。それでも僕は、ハウアーが演じたジョン・ライダーの存在感が強烈だったから、これはいかんのではないか、と思ったわけです。

ジョン・ライダーは、ジム青年を悪人にしたて、とことんジムを追いこんで、ジムが自分を殺すように仕向けます。それが目的だということは中盤で明らかになるわけですが、その物語展開のために、ライダーはまるでスーパーマンのごとく振舞う。保安官事務所を襲撃して、ジムを逃げられるようにする、などなど。

先日、マイミクのすーおやじさんが、ある犯罪の容疑者の行為について“この行為は正常だ。なぜなら自分より弱い人間を狙っている。そこに正常な判断かある”と言っておられました。僕もそのとおりだと思う。誰でも良かったと言いながら、たいてい自分より明らかに弱い人間を襲っている。その行為を異常とするのは全体像を見誤った微視的判断です。

なぜ僕が、犯行に及んだ人間に対して否定的になるのかというと、そういう犯行が社会的不満の一つの現れであっても、しょせん弁護するに足らないと考えるからです。T・ルーズベルトは、副大統領の時にマッキンリー大統領が暗殺され大統領となりました。そのとき“どのような論理も、《社会秩序の中の不平等》への抵抗を理由に、大統領の殺害を正当化できない”と述べました。僕はそれに対して、社会そのものを転覆する場合は当たらないと考えます。

しかし、この夏の京都アニメーションでの事件などを見るにつけ、非常に微視的な反抗が大きな被害をもたらすことに対する怒りが、僕の中には強くあるわけです。とにかく最近、あおり運転の逆切れなど、ばかげた事件が多すぎる。これはマスゴミがその程度のニュースしか報道しないというだけの問題ではありません。ですが「ヒッチャー」の悪人像は、それらを許容しそうに思える。少なくとも「刑事コジャック」が描いた犯罪が、若者を犯罪には知らせたという論理(アメリカで訴訟がありました)よりは、“正しい”ように見えます。

たかが映画じゃないか、とヒッチコックは言いました。だから彼は常にスクリーン・プロセスを用い、一目瞭然のセット撮影で映画を作りました。ところがこの映画のジョン・ライダーは、スーパーマン的に行動するけれど、我々と同じ人間というスタンスを外しません。もちろんライダーが空を飛んだら、この映画がスリラーとして成り立たないでしょう。それでも僕は、こういう人物像を否定したいと思うのです。

これは先日「ジョーカー」を見て、“僕が監督官庁の人間なら上映禁止にする”と発言したことと同じ意味です。幸か不幸か、僕はその地位にいませんが、個人的な見解が許されるSNSにおいては、こういう人物像を創り出した映画を否定したい。これはもしかしたら、作り手に対する最大の賛辞かもしれません。僕の言葉をどう取るか、それは受け止めた皆さんが決めることです。ただ僕は、この映画を買いません。
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