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2019年10月20日03:14

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この映画を劇場で見なくて正解だったと思います。リューベン・オストルンド監督「ザ・スクエア 思いやりの聖域」(2017)。

この監督の「フレンチアルプスで起きたこと」(2014)を見たとき、僕は“いい映画とは呼べないが、この《新しい手法》は評価するべきだと思う”と書きました。あのアルプスの雪崩がカメラを包み込むまでのワンカットは、たしかに鮮烈でした。しかし、今回はそんな妙味がどこにもありません。なのに2時間31分もある。

物語は、博物館の主任キュレイターであるクリスチャン(クレス・バング)が主人公。新しい出し物をどう宣伝するか腐心しています。メインの作品は4メートル四方の正方形を床に描き、そこを“思いやりの聖域”として来訪客に参加してもらう、というもの。ところが、クリスチャンは街角でスリ被害に遭い、携帯と財布を盗られます。すると彼は、およそ“思いやり”とは真逆な行動をとる、という展開でした。

このクリスチャンという男が、思慮も分別もないバカ男なので、とことんアホらしくなります。携帯電話のGPS機能で、どのアパートにあるかまで判明すると、部下のアイデアを真に受けて全戸に“この家に泥棒がいる。分かっているから携帯と財布を返せ”と書いた手紙を投かんするわけです。そしてめでたく取り戻すのですが、思わぬ展開が彼を襲う。

いちおう王立博物館の主任キュレイターたる人間が、こんな思慮分別のない野郎でいいのかとバカバカしくなり、とことん“いてもうたれ”と眺めていました。案の定、クリスチャンは自分の失態を他人のせいにする。子供たちが彼のせいで迷惑を被っても、逆ギレして怒鳴り散らす。こんな野郎は、フレンチアルプスの雪崩から家族を放っぽって逃げだした野郎よりもダメですぜ。いっぺん雪崩で死んでこい、と思う。

いや、もちろんダメ人間を描くことが悪いのではありません。その描き方なのです。ダメ人間にはダメ人間なりの論理があり、そいつは自身の論理を正しいと信じ込んでいるわけです。しかし、泥棒にも三分の理という言葉がありますが、このクリスチャンには1分の理すら感じられません。本来こういう人間は、ハリウッド映画なら巻頭の10分程度で殺される運命にあるわけです。それが2時間半、ダボラ論理を展開し続けるわけです。こんなん、あかんで。

この博物館でトークショーが行われているとき、客のひとりが“不規則発言”を繰り返します。それに対して付添人らしき女性が、“この人は病気なんです。すみません”と発言しながら、連れ出そうとはしない。別の人間が“寛容な態度をお願いします”と言う。僕にはその“寛容”はありません。その場のルールを守れない人間は、そこに加わるべきではないと考えるから。

つまり、その不規則発言騒ぎも、“思いやりの聖域”という展示の一つだったのでしょう。ほかにも、イベントとして開催している宴会のさなかに、類人猿のような格好の人間が乱入します。そんなハプニングを芸術だと言って楽しむ人には、この映画は面白いかもしれませんが、僕は御免だ。

この映画は社会における寛容が偽善だと指摘している、と主張する人は、その指摘行為こそが偽善だと知るべきでしょう。社会はいまだかつて正しく民主主義が実践されたこともなければ、社会正義が貫徹されたこともないわけです。そんなどうしようもない事実と、思いやりの精神とを対比させて芸術を気取る、それこそ偽善でしかないわけですから。

ということで僕はこの映画を、“下手な考え休むよりもダメ”だと認定します。この監督は、映画史に残るスペクタクルな一場面を作りましたが、それ以外の発想や思考については凡庸だと自ら示したに過ぎません。「ベン・ハー」の戦車競走シーンを演出したアンドリュー・マートンは、第二班監督として優秀でしたが、監督としては成功しませんでした。リューベン・オストルンドはそれと同じか、それ以下だったということです。

写真2は、博物館の会議に赤ん坊を連れてきて会議中にあやしている職員。ここまで寛容な社会なら、住みやすいかな?←この生活が保障されるのなら構わないけど、そこまで経済的に裕福な国はあり得ないと思う(これは現実認識であり、希望ではありません)。写真1の左下にいる女性は、テレビの「ザ・ホワイトハウス」でマーティン・シーンの娘を演じていたエリザベス・モスです。誰かに誘拐されたきり番組を見ていなかったけど、北欧の博物館へ取材に行ってたんだ。クリスチャンと寝た後の茶番劇はサイテーのまだ下ですぜ。
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