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2019年08月20日03:37

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アラン・レネの「二十四時間の情事」の“恋人”に、ようやく会うことができました。関川秀雄監督「ひろしま」(1953)。

NHKのEテレで放送しました。担当者としては、BSではなく地上波で放送したい、ということだったではないかと想像します。まだBS視聴環境にない人が多い。総合テレビのゴールデンタイムで放送しなかったところが、現在のNHKなのだと僕には思えます。最初配給を予定していた松竹が“3か所のカット”を申し入れ、製作者たちはそれを受け入れず自主上映したと聞いています。GHQに気兼ねした松竹と、今の政府に気兼ねしたNHKという図式が感じられます。

実は、この映画を見るのには抵抗がありました。アラン・レネの「二十四時間の情事」で語られたように、この映画を見たからと言って“ヒロシマ”を見たことにはならないからです。それはやはり僕にとっても“事実”でした。この劇映画「ひろしま」の作意が、作り手たちのナマな意識が、ドラマとして昇華されていない部分が嫌でした。

しかし、エマニュエル・リヴァが演じた彼女のように「ひろしま」を眺めている僕がいます。戦後生まれの僕は、“ヒロシマ”を知らないのでした。この映画などを見て、広島の惨状を知ることになる。日教組が中心になったこの自主製作映画は、長田新(おさだ・あらた)が記した「原爆の子」を基にしています。新藤兼人が脚本を書いたけれど、製作者サイドと一致せず別々に製作されたらしい。

冒頭、1952年という時代から始まるので、すんなりと鑑賞できました。そして“ピカ”が唐突に訪れる感覚が“いいな”と思いました。以前、片渕須直監督「この世界の片隅に」(2016)を見たとき、僕は“完成度が低い”と書きました。同じようなことがこの「ひろしま」にも言えます。たとえば東日本大震災の惨状を体感した人は、その後のどんな劇映画を見ても、現実体験で映画を補わないとリアルには感じ取れないはず。その補完作業をどの程度許容するかで、映画の評価が決まります。

結論から言えば、「ひろしま」については映画の出来不出来を超えた地点にこの映画があると感じました。あわせて安田女子高の「ザ・ドキュメンタリー」を途中まで見たので、当事者の悲痛な心境に接した気がします。そうなると、これはもう“映画”というレベルでは語れません。

月岡夢路の色っぽい先生にニヤけていたら、被曝して泥まみれで川に入り力尽きて流されます。このとき水がかかると顔の汚れのメイクが簡単に落ちてしまい、“やはり劇映画だ”と思っている僕がいました。僕はエマニュエル・リヴァと似た位置にいるわけです。そして加藤嘉が家族を探す場面を見て“オーヴァーアクト”だと意識する僕がいる。つまり僕は、彼女(ヌベール)を愛することも、彼(ヒロシマ)と一体化することもできないわけです。

アラン・レネは、“ヒロシマ”との安易な連帯を否定しました。安易に同情する程度で、この世界的な事件を扱ってはいけない。「ひろしま」の生徒が語るのですが、ドイツの白人学生が記した本には“アメリカは日本人が有色人種だから原爆を落とした”との見方もある。複雑な世界事情が、ヒロシマとナガサキに突出して現れた歴史的な事件なのです。単純化して涙するだけでは済みません。

もうひとつ言えることは、今僕も“この映画を一人でも多くの人に見てもらいたい”と思います。いい映画だからではなく、今までになかった刺激をもらえるから。しかし、ほんとうに見てもらいたい人は、絶対に見ないんだろうとも思います。この映画を見たら、A級戦犯の孫だって、少しは人間らしい気持になるはずだと思うのですけどね。←きっと“日教組のプロパガンダ映画だ”で終わることでしょう。実際にそう感じる部分もありますが、そんなことを超えて、感じる部分の多い映画なのです。

僕は新藤兼人の「原爆の子」を小学生時代に見たはずですが、全く記憶にありません。この「ひろしま」にも手を出すことを逡巡したのですから、まず見ないと思う。でもいちおう録画してあったな。見ようかな。
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