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2019年08月19日06:35

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友部正人さんの歌は、時代により題材に変化はあるけれど、物事の見方は変わっていないと確信できます。

東京都の公開講座を手伝わせてもらって2年目になります。もっとも佳境に猛暑が重なり、テンションをあげて挑んでいます。昨年、日本のフォークの歴史を鳥瞰したので、今年はアーティストをテーマに展開、今回は友部正人さんでした。

友部さんは1972年の1月にURCからアルバム「大阪へやって来た」でデビューしています。←レコード発売をもってデビューというのは、まさにレコード会社の発想ですね。そして同年4月25日にシングル「一本道」をベルウッドレーベルから発売しました。これは、あがた森魚の「赤色エレジー」(OF−1)と同時でレコード番号はOF−2でした。

発売の2か月ほど前に、支店のセールスマンを対象にした新譜試聴会があります。そこで各セールスマンが、自分のテリトリーで何枚売るかをオーダーする。それが全国的に積みあがって初回何枚プレスという数字が決定するというシステムでした。今は予約システムが徹底していて、発売告知が新譜オーダー会議より前にあるようですけど。

今でも僕は、その新譜試聴会での先輩たちの反応を覚えています。まず「一本道」の歌詞“僕は阿佐ヶ谷の駅に立ち”という部分でクスリと笑いが漏れます。そして“シンセイひと箱分の一日を、指でひねってごみ箱の中”という部分では数人が笑っていました。こういう歌詞の歌になじみのない人が多く、“こんな歌、売れるのか?”という雰囲気がありありでした。

僕はそれ以前に、小室等の「雨が空から降れば」で現代詩を歌にした楽曲を知っていたし、高田渡の「珈琲不演唱(コーヒーブルース)」を聴いていましたから、友部さんの「一本道」は、大売れはしなくても“イケる”と感じていましたが、セールスマンの先輩各氏は、“売り上げを救う大ヒット”のみを求めていた、という温度差なのでした。

だからこそ、先輩諸氏も「赤色エレジー」の歌声と耳なじんだメロディーに興味をひかれ、あがた森魚のシングルはヒットとなりました。世間にも、ヒット曲を聴きたい買いたいという流れがありました。1971年末に上條恒彦と六文銭による「出発の詩」がヒットし、72年1月にはテレビ「木枯し紋次郎」の主題歌「誰かが風の中で」がヒットしました。

1971年には、ヒットと呼べるヒット曲がなかったキングレコードの中で、もっとも注目されていいのがベルウッドだったわけです。しかし、音楽的には注目しても、ヒットという方向性とはいささか違うのがベルウッドだったと思います。それでも、URCと契約しているレコード店では、ポツリポツリとアルバムが売れている事実を僕は知っており、自身もそのあたりのアルバムを買い求めて、いろいろ聴いて確信していました。←卸値で分けてくださった春日野道の小田レコードさん、ありがとうございました。

ベルウッドレコードから三浦プロデューサーたちが去った後、小池さんたちとベルウッドに残った僕は、シバさんやガンさんたちのアルバム制作などを続けました。マスコミでは騒がれないけれど、確実にアルバムが売れるアーティストたちでした。さらにレジェンドである三上寛さんも加わってくれます。

僕は、地道に音楽活動を続けている友部正人さんに、レコードをプレスするときはぜひ、と接近したのでした。吉祥寺のぐわらん堂でのライブに行き、奥さんのユミさんとお話ししたことを覚えています。著作権管理とかレコードの原盤権というものを説明し、それから友部正人オフィスは自分で原盤権を管理する方向へと進んだように思っています。

そして1980年から僕はジャパンレコードの販売促進担当となり、友部さんがCBSソニーで出しながら“再プレス不可”となったLPを自主製作する仕事を請け負いました。そこから、ラフトレードというインディーズレーベルを担当していた芹沢のえが、友部さんに接近してアルバムを2枚作ります。

今回、自主製作の「1976」と、ジャパンレコードからの「ポカラ」「カンテグランデ」をじっくり聴き直すと、いろいろ思い出が駆け巡りました。のえのご主人が御影さんという映画プロデューサーで、ヴィム・ヴェンダース作品のパーティーに参加させてもらってヴェンダース監督と言葉を交わしたこと、あるいはラフトレードというインディーズの、今まで聴いたこともない“新しい音”に驚いたこと、などなどです。

今回、手持ちLPを講座担当の先生(マイミクさんですけど)に引き取ってもらうため、6枚のアルバムをCD−Rにしました。ソニーの簡易プレーヤーですから音質は知れている。と思って聴いたのですが、なんとコンピューターに取り込んだ音質に、差があることに気づきました。もちろん録音技術が72年当時とその10年後では違う、ということも大きいでしょう。でもそれだけではない“音質の差”を感じたのです。

で、思い当たったのが、「大阪へやって来た」と「にんじん」はURCレコードなのでプレス工場はメジャーではないと思います。ですが、「1976」と「ポカラ」「カンテグランデ」は日本ビクターでのプレスだということ。←これはテレビ放送をVHS録画したものを見比べて、元の素材が35ミリだ、いや16ミリだと論じるよりも不確かな話ではありますが、僕はその違いを感じた気がしたのでした。

そんな友部さんと僕は、2012年の夏にニューヨークで再会しました。そしてアッパーウエストサイドのご自宅にもお邪魔したのです。そこで新曲「マリーナとウーライ」の逸話を聞き、マリーナのDVDを教えてもらいました。あのドキュメンタリーはとても興味深い。友部さんは、歌う題材が時代によって変わっているけれど、物事を見つめる視点はブレていない。その視点と表現力が、圧倒的な存在感なのだと再確認できました。

最後に、どなたか“ふーさん”をご存じですか? 曲を聞いて思い出し、とても懐かしく感じています。
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