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2020年02月25日02:32

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義銀と義昭という主君の類似

○尾張時代の信長は、守護の斯波義銀から「実権を奪った」んだとさ。そして利用価値がなくなると、義銀を「追放」しちゃったんだって。次に信長は、天下取りの第一歩として「上洛を果たす」と、将軍の足利義昭から「実権を奪った」んだとさ。そして利用価値がなくなると、義昭を「追放」しちゃったそうな。それで「天下人」に近づいた信長は、次に正親町天皇から「実権を奪おうとした」もんで、いずれは天皇が「傀儡にされちゃう」または「追放されちゃう」と心配した朝廷が、「明智光秀に信長を討たせた」という解釈。話の筋道は通ってます?

○「主権」と「執政権」に区別のない世界が「本物の歴史」ならばね。小瀬甫庵が書いたのは「物語」だから、義銀なんて「存在をカットしている」わけじゃんか。

○「桶狭間合戦」の前年のころ、尾張には「すでに斯波家から離反していた者たち」がいました。海西郡の服部、知多郡の山口などは「駿河の今川家に従っていた」のです。一方「岩倉の守護代」織田信賢などは「美濃の一色家とつながっていた」模様。守護の義銀と、守護代の信賢が「争っている」限り、今川方の者たちは安全でしょうけど、新たに守護代となった信長の力によって「信賢が逃亡する」と、次に制圧されるのは「今川に付いた者」になるじゃないですか。だから今川義元は「自分に従う者たち」を守る必要があって「仕掛けてくる」んです。

●『信長公記』首巻
「一、熱田より一里東鳴海の城、山口左馬助入置かれ候。是は武篇者才覚の仁なり。既に逆心を企て、駿河衆を引入れ、ならび大高の城、沓掛の城、両城も左馬助調略を以て乗取り、推並べ、三金輪に三ヶ所、何方へも間は一里づつなり。鳴海の城には駿河より岡部五郎兵衛城代として楯籠り、大高の城、沓掛の城、番手の人数、多太多太(たぶたぶ)と入置く」

○鳴海城は名古屋市内の南東の端にありました。こんなにも「尾張の中心地」に近いところに離反者がいたんです。信賢の問題が片づいたあと、信長が「放置しておく」はずもないと思いませんか?『信長公記』が書く順番はおかしくなっていますけど、正しくは「信賢の逃亡。鳴海城に駿河衆が入る。義銀の追放」の順になるはずです。義元が「家来の岡部」を城代に送りこみ、「番手の人数」をたっぷりと送りこみ、「攻められるもんなら攻めてみやがれ」と挑発してくるわけですよ。その一方で、西部の海西郡に地盤を持つ服部が「降参なさいませ。地位の保証を受けられたほうが利口です」と義銀に働きかけてくるってわけ。このときに義銀が「今川軍には勝てない」と思うのは、そんなにおかしな判断ですかね?

●『信長公記』巻六(元亀四年)
「去程に、公方様内々御謀叛思食立の由其隠れなく候。子細は、非分の御働共御勿体なきの旨、去年十七ヶ条を捧げ御異見の次第」
(十七ヶ条の異見書は省略)
「右の旨御異見の処、金言御耳に逆り候。然る処、遠州表は武田信玄差向ひ、江北表は浅井下野、同備前父子、越前の朝倉、彼等の大軍に取合ひ、虎後前山番手半に候て、方々御手塞の由下々申すに付いての儀に候哉」

○今度は「義昭の御謀反」です。当時の信長は敵だらけ。元亀元年四月に越前の朝倉義景が離反すると、浅井長政も裏切るし、阿波の三好衆が攻撃してきて、本願寺も寝返る始末。さらに元亀二年五月には、河内の三好義継と、大和の松永久秀が離反するし、ついには甲信駿の武田信玄が裏切って侵攻してきました。ちなみに「十七ヶ条の異見書」が元亀三年九月です。そして信玄の遠州侵攻が十一月。よって「異見書で頭にきた義昭が、信玄に出陣を要請した」というのが通説です。

○しかし『信長公記』の記述は違うんですよね。信長の意見が「義昭の耳障りだった」とするのは同じでも、義昭が「反抗を決意した」理由を「方々お手ふさがりだと世間の者が言っていたからか?」と推測しているんです。つまり「今なら信長に勝てると思ったのか?」の意味。要するに著者の太田牛一は、離反者たちの行動を、直接には「義昭と結びつけていない」んですよ。早い話「信長に腹を立てた義昭が、信長の手が回らないのに便乗して、信長を倒そうとした」と言っているんです。では、牛一の「推測」の問題点に気づきます?「朝倉たちが、義昭の統治から離反した」のであれば、「義昭の周囲が敵だらけ」です。その状態で、頼みの綱の信長を倒すのは、いくら「意見されて腹を立てた」からって、自殺行為ですよね?「そのくらいは気がついた人」がいたからこそ、反対に「義昭が平気で信長と敵対したのは、離反者たちが義昭の味方だからだ」と解釈。そこから「義昭のほうが命じて、彼らに信長と敵対させた」という考え方をしたわけです。

○だけど、もしも「主体が逆」だったなら?「義昭が、信玄に、信長の討伐を命じた」のではなく、その反対に「信玄が、義昭に、信長と敵対させた」のだったら?「義銀が今川義元を恐れた」ように、義昭もまた「武田信玄には勝てない」と恐れたがゆえに、信長を見捨てて「信玄に乗り換えようとした」のだったら?

○義昭と信玄、どちらが「主体」だったのか、決め手となる鍵の一つが「主権」です。今まで「義昭のほうが命じた」と言ってきた通説は、その意味として「国家主権だとか地方主権だとか、そんなものは昔の日本になかったんだ」と主張するのも同じですね。日本という国が、そんなにチャチな世界だと思ってんのね?
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